ヨハネによる福音書5章5-6節
- Pastor

- 2022年1月22日
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更新日:2024年12月4日
さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。
イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。
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ベテスダの池の周りには回廊があって、そこには大勢の病人が集まっていた。その池は間欠泉で治癒の効果があったからである。
そこに38年間病にふせっていた男がいた。
主イエスは彼が長い間わずらっていたのを「知って」とある。
苦悩している人はその解決を望んでいるが、それ以前にその苦しみを他人にわかってもらいたいという願望がある。しかしながら、人は他者の痛みを本質的にわかり得ない。
本当にわかるのは十字架にかかられた神の外にない。
主は「悲しみの人で病を知っていた」(イザヤ53:3)。
「なおりたいのか」。主は彼の苦悩をことごとく知り癒す力と権威をもったお方である。
この問いに「はい、私はなおりたいのです」と救い主と正面を向き応答すべきであった。
ところが、彼は「主よ、私には水がかき回された時、池の中に入れてくれる人がいません」と答えた。
救い主を目前にしながら、主をヘルパーの一人としか見ていなかった。
私たちも「私が不幸なのは親や職場の上司、社会、学校・・・のせいである」と言いたい。
たといその言い分が正当であろうと、脇を見てそう言い続けているうちは、救い主と出会うことができない。
幼な児のように柔らかな素直な心をもって主の問いかけに「よくなりたい」と応答できるものでありたい。






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