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イザヤ書53章11-12節
彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。 義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。 彼は強い者と共に獲物を分かち取る。 これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。 しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。 ******* 主は、恐ろしいほどの肉体的な苦しみと、ののしりの言葉を浴びせられ、そして最後に臨んだ最大の苦悩、父なる神に捨てられるという、誰も想像し得ない苦しみの中を通された時に、光を見て心は満たされた。その苦しみによって人類の救いが成し遂げられたからである。私たちもまた、この地上においてどんなに辛い目にあったとしても、息を引き取る時には、光を見て満足し、その顔は安らぎに満ちる。天の御国の輝きを見るからである。

Pastor
3月31日


イザヤ書53章10節
しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。 彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、 その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。 ******* 主が十字架の苦しみの中を通ることによって罪の贖い、人類の罪と死から救いは完成された。ここにはキリストの復活、キリストを信じる者のよみがえりが示唆されている。私たちの究極の救いは、朽ちることのない、主と同じ栄光の身体が与えられ、神の御国を受け継ぐことである。キリストの十字架を仰ぎ、キリストの恵みを無にしてはならない。

Pastor
3月30日


イザヤ書53章7-9節
彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。 ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。 その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。 彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。 ******* 昨日の6節には、羊飼いのもとを離れてしまったら、迷ってもとに戻れない羊の習性が語られてあったが、7節には、羊の飼い主に対する従順さが描き表わされている。主がゲッセマネの園で捕縛され、大祭司の前に立たされ一方的な不当な裁判を受けた時に、総督ピラトの最終裁判を受けた時も、ピラトはなんとか主イエスを無罪にしようと努めたが、主は決してご自身の無罪をご自分の口から主張することはなかった。主は終始父なる神のみ旨に任せ、無言のままだった。主は黙々と十字架の道をたどられ、打たれ断たれた。十字架の苦しみを受け、死を遂げたのである

Pastor
3月28日


イザヤ書53章6節
われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。 主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。 ******* 主は何のために十字架にかかられたのか?それは、私たちの地上での苦しみを担うためである。しかし、それをはるかに超えて重大な目的は、私たちの罪のためである。 罪とは、羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行くことである。人は本来神に向かって生きるべきものである。それが人類の始祖アダムとエバの堕罪(だざい)によって、人は自己に向かって、自己のために自己によって自己中心に生きるようになった。自己中心という罪は、事と次第によって他人をも殺しかねない。羊は方向音痴と言われる。人は羊のように、本来帰るべき道を知らず、神からはるか遠く隔てたところへ行ってしまって、だれもが失われている。そのまま放っておけば、人は永遠に失われ滅びてしまう。この地上での生涯を終えて、消えてなくなってしまってもかまわないと言う人もあるが、神から引き離されて底知れないところに捨てられる恐ろしさを人は知らない。それをご存じなのは、「わが神、わが神、ど

Pastor
3月27日


イザヤ書53章5節
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。 彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。 ******* キリストの十字架は贖(あがな)い、すなわち代償を意味する。私たちが受けなければならない責苦を主が身代わりとなって受けてくださったのである。昨日述べた肉体的苦しみと精神的苦しみとは、死後、最後の審判後に受けなければならない責苦というよりは、現世において経験する肉体的苦しみと精神的苦しみのためである。 主の受難は、ピラトによって十字架刑の判決が下されると、ローマの兵士によって頭にいばらの冠をかむせられ、その上からこん棒で頭をたたかれた。太いいばらの棘(とげ)は主のこめかみや目のあたりに食い込み、顔や頭ははれあがり血がしたたった。次に服をひきはがされ、むち打たれた。古代ローマ時代のむちは牛皮でできていて、その先端には家畜の骨や鉛がはめ込まれてあり、背中を打つと、皮膚を破り背中に食い込む。むちを背中から引き離すと、血や肉片が飛び散った。そのむち打ちが39回に

Pastor
3月26日


イザヤ書53章3-4節
彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。 また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。 しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。 ******* 私たちはこの地上にあって耐えがたい苦しみに遭う。一つは肉体的な苦しみである。負傷、病から来る痛みである。もう一つは精神的な苦痛である。ののしり嘲(あざけ)られること、だまされ裏切られることなど。この二つの種類の苦しみを、主はあの十字架の上で負われたのである。だから、主は私たちのあらゆる痛み苦しみを手に取るようにわかってくださる。また、その痛み苦しみを主が一緒に負ってくださるので、私たちはそれを負い切ることができる。痛み苦しみに押しつぶされることはない。

Pastor
3月25日


イザヤ書53章1-2節
だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。 主の腕は、だれにあらわれたか。 彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。 彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。 ******* 旧約聖書に幾度にもわたって、メシヤ(救い主)の到来が預言されていたが、いざ、来臨した時に、神の民であるユダヤ人はそれを認めることができなかった。そればかりか、救い主を排斥し、十字架にかけたのである。よりによって、もっとも聖書に精通し民らに教える立場にあった律法学者が、民らを扇動し救い主を十字架にかけたのである。そこに隠された全人類救済の神のご計画があった。 神が人となってこの地上に来られるなど、誰も想像もできぬことだった。ナザレの出身で、大工の家に生れた者が救い主であるなど、つまずきでしかなかった。しかしながら、キリストと出会い、救いにあずかる人たちが少なからずあった。彼らは高ぶらず、柔らかい心をもって、主イエスの語られる言葉を聴いたからである。 へりくだって柔軟な心で主に顔を合わせ、言葉を聴くなら、その救い主が「見

Pastor
3月24日


イザヤ書55章10-11節
天から雨が降り、雪が落ちて、また帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者に糧を与える。 このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。 ******* ここに、神のみ言葉とは、いかなるものであるか、実にわかりやすく、例えて説き明かされています。 天から雨が降り、雪が舞い降りて、雨は川となって野山を降ります。その水が田畑に引き入れられ、あるいは直接降り注いで、農作物を育て、草木を茂らせます。そして、花を咲かせ、実を結ばせるのです。鳥や動物にも水を与えて乾きを癒します。われわれ人間は、水を得て、育てられた農作物から糧を得るのです。雪は、高い山の尾根の狭間に氷となって、日照りに備え、大量の水を山に確保します。雨や雪は川を下って海に至り、太陽に熱せられて水蒸気となり、再び天に還って行くのです。 それと同じように、一旦、神の口から発せられた言葉は、虚しく還ることがなく、なすべきことを果たして、神の下に還っていくというのです。 聖書から神のみ言葉が講談

Pastor
1月1日


イザヤ書50章11章
恵みの雨(2) 舟喜 ふみ そのように、私の口から出る私の言葉も、むなしくわたしのところに帰って来ない。必ずわたしの望むことを成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。 ******* 主のいのちの籠(こも)っているみ言葉を、祈りを持って読むとき、心にぴったり当てはまるよ...

舟喜ふみ師
2025年5月22日


イザヤ書55章10章
恵みの雨(1) 舟喜 ふみ 雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種まく者に種を与え、食べる者にはパンを与える。 残暑の炎熱に、ぐったりしているナスやきゅうりが、一雨降ると、生き生きと元気になります。自然界の雨でさえも地を潤して、...

舟喜ふみ師
2025年5月21日


イザヤ書53章12節
しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。 ******* キリストは、十字架にかかられて神と人との間を隔てている罪を取り除き、そして今もなお、神と人との間にあってとりなしておられる。 彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。(へブル7:25) 新聖歌200番の1節の歌詞を味わってみよう。 心に悶(もだ)えあらば イエスに話せ イエスに話せ うれいと悩みあらば イエスに話せよ イエスに話せ 良き友なる イエスに話せよ 思案せずに 何ごとをも イエスに話せよ 心に悩みもだえることがあれば、何でもイエスに話そう。イエスに話すなら、私たちの心は落ち着きを取り戻し、イエスは必ず脱出の道を備えてくださる。イエスに話せ、イエスの名によって祈れ。

Pastor
2025年4月17日


イザヤ書53章12節
それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。 ******* 「とがある者と共に数えられた」。主イエスは死に至るまで、最後の最後まで罪人の側...

Pastor
2025年4月16日


イザヤ書53章11節
彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。 ******* 一昨日、日曜日の午後のワーシップ・タイム、そのメッセージにおいて、「すべては成し遂げられた」(ヨハネ19:30)というみ言葉が語られた。...

Pastor
2025年4月15日


イザヤ書53章10節
しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。 彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、 その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。 ****** キリストが十字架の上で砕かれ、その痛みにもだえ苦しむことは父なる神の...

Pastor
2025年4月14日
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