イザヤ書53章10節
- Pastor

- 2025年4月14日
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しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。
彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、
その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
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キリストが十字架の上で砕かれ、その痛みにもだえ苦しむことは父なる神の御旨(みむね)であったという。高熱でうなされている子をかたわらに見て心を痛めない親はいない。父なる神にとっても、十字架の上で壮絶な死を遂げるわが子を前にして心引き裂かれる思いであったろう。父なる神も子なる神もその苦悩を乗り越え、キリストは、贖いの供え物としてささげ切ったのである。それ故に、「その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる」。これは、復活を示唆するものである。このキリストの死があって、キリストの復活がある。このキリストの復活があって、私たちの復活がある。今日のキリスト者である私たちも、主が見ることができた子孫なのである。神の子とされ、復活の命が与えられ、子であるが故に親の遺産を相続する。御国を受け継ぐのである。






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