イザヤ書53章5節
- Pastor

- 3月26日
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しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
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キリストの十字架は贖(あがな)い、すなわち代償を意味する。私たちが受けなければならない責苦を主が身代わりとなって受けてくださったのである。昨日述べた肉体的苦しみと精神的苦しみとは、死後、最後の審判後に受けなければならない責苦というよりは、現世において経験する肉体的苦しみと精神的苦しみのためである。
主の受難は、ピラトによって十字架刑の判決が下されると、ローマの兵士によって頭にいばらの冠をかむせられ、その上からこん棒で頭をたたかれた。太いいばらの棘(とげ)は主のこめかみや目のあたりに食い込み、顔や頭ははれあがり血がしたたった。次に服をひきはがされ、むち打たれた。古代ローマ時代のむちは牛皮でできていて、その先端には家畜の骨や鉛がはめ込まれてあり、背中を打つと、皮膚を破り背中に食い込む。むちを背中から引き離すと、血や肉片が飛び散った。そのむち打ちが39回に及んだのである。40回打つと死に至る、その一歩手前でむち打ちを終える、半殺しの状態である。それから官邸を出て十字架を自ら背負い、エルサレム街のドロローサ(悲しみの道)をたどり、ゴルゴダの丘、そこにある刑場に向かう。しかし主は負い切れず何度も倒れた。すると、ローマ兵は通りすがりのクレネ人シモンに十字架を代わりに負わせ、ゴルゴダに到着した。主は十字架の上に寝かせられ、手と足に太い釘を打ちつけられ、あらかじめ掘った穴に十字架の下部をドスンと落とされ、十字架が立ち上げられる。身体全体の重みをくぎを打たれた両手、両足で支える、血がほとばしり流れる。
無残な姿をさらした主に向かって、律法学者、祭司長はじめ、彼らに扇動された民衆は口汚い言葉でののしった。
これらの十字架の受難は、私たちがこの地上でなめ味わう辛酸(しんさん)、苦悩のすべてを網羅(もうら)する。私たちがどんな病の苦しみの中にあっても、どんなに精神的な苦しみに追い込まれても、そのような人にだれよりもそば近くあって、その痛みを知り、何も言わずに黙って負ってくださる。
そして、身体の傷も心の傷も、ご自身の打たれた傷によっていやしてくださるのである。
今朝も、私は十字架をあおぐ。






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