イザヤ書53章6節
- Pastor

- 3月27日
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われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。
主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
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主は何のために十字架にかかられたのか?それは、私たちの地上での苦しみを担うためである。しかし、それをはるかに超えて重大な目的は、私たちの罪のためである。
罪とは、羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行くことである。人は本来神に向かって生きるべきものである。それが人類の始祖アダムとエバの堕罪(だざい)によって、人は自己に向かって、自己のために自己によって自己中心に生きるようになった。自己中心という罪は、事と次第によって他人をも殺しかねない。羊は方向音痴と言われる。人は羊のように、本来帰るべき道を知らず、神からはるか遠く隔てたところへ行ってしまって、だれもが失われている。そのまま放っておけば、人は永遠に失われ滅びてしまう。この地上での生涯を終えて、消えてなくなってしまってもかまわないと言う人もあるが、神から引き離されて底知れないところに捨てられる恐ろしさを人は知らない。それをご存じなのは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫され、その苦しみの中を通られた主イエス・キリストの他にいない。主は、私たちがそんな最終的な、取り返しのつかない最大の苦しみに遭うことが決してないように、ご自分の身に引き受けられたのである。それは、生み親の究極の愛である。「主はわれわれのすべての者の不義を彼(主ご自身)の上に置かれた」とあるように、私たちの罪のいっさいをご自分の身に引き受け、私たちの身にこの苦難が及ばないようにしてくださったのである。だれもが十字架をあおぎ、主の救いを受け取るべきである。キリストの死を神の愛を無にしてはならない。






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