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イザヤ書53章1-2節

  • 執筆者の写真: Pastor
    Pastor
  • 3月24日
  • 読了時間: 2分

更新日:3月25日

だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。

主の腕は、だれにあらわれたか。

彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。

彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。


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旧約聖書に幾度にもわたって、メシヤ(救い主)の到来が預言されていたが、いざ、来臨した時に、神の民であるユダヤ人はそれを認めることができなかった。そればかりか、救い主を排斥し、十字架にかけたのである。よりによって、もっとも聖書に精通し民らに教える立場にあった律法学者が、民らを扇動し救い主を十字架にかけたのである。そこに隠された全人類救済の神のご計画があった。


神が人となってこの地上に来られるなど、誰も想像もできぬことだった。ナザレの出身で、大工の家に生れた者が救い主であるなど、つまずきでしかなかった。しかしながら、キリストと出会い、救いにあずかる人たちが少なからずあった。彼らは高ぶらず、柔らかい心をもって、主イエスの語られる言葉を聴いたからである。


へりくだって柔軟な心で主に顔を合わせ、言葉を聴くなら、その救い主が「見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもなくとも」、その方が救い主であることがわかったであろう。自分は何でも知っている、自分は正しいと思っている人には隠され、自分は何も知らない、自分は決して正しい者ではないと思っている人に、救い主はご自身を現わされる。



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