イザヤ書53章5節
- Pastor

- 2025年4月7日
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しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
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キリストの受難は、肉体的苦しみ、精神的苦しみにとどまらなかった。それらをはるかに凌ぐ耐えがたい苦しみが残されてあった。それは霊的な苦しみである。「神に捨てられる」というものである。
罪によって神との交わりが途絶え、断絶の状態にあっても、私たちの住まう世界、とりわけ自然界は美しく、神の恵みは満ちあふれている。それは神の御手が届いているからである。しかし、「神に捨てられる」とは、神の御手の届かない、底知れない暗やみに捨てられることである。私たちはこの恐ろしさを知らない。この世にこの苦しみを味わった者は誰一人いないからである。ただ子なる神、主イエス・キリストはこの苦しみの中を通ってくださったのである。キリストは肉体的・精神的苦しみは耐え抜かれた。しかし、父なる神に捨てられる苦しみには耐え切れなかった。それ故に、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫されたのである。
子なる神が父なる神に捨てられ、切り離される。三位一体の神が引き裂かれたのである。これは驚天動地、あり得ない出来事であった。しかし、そのあり得ないことが起こったのが、十字架という出来事だったのである。そこまでの犠牲が払われ、十字架による贖いは完成されたのである。この十字架を仰ぐなら、赦されない罪はなく、いやされない傷はない。






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