使徒行伝10章15節
- Pastor

- 2024年4月11日
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更新日:2024年10月11日
すると、声が二度目にかかってきた、「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」。
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この10章には、イタリア隊の百卒長(百人の歩兵を指揮する将校)コルネリオの救いの出来事が記されている。これを機に、宣教の舵(かじ)は大きく切られ、福音は離散しているユダヤ人から異邦人に宣べ伝えられるようになって行くのである。
ヨッパに滞在中、うたた寝をしていたペテロに、主は幻のうちに語られた。天から風呂敷包みのようなものが降りてきた。包みの中には、おおよそユダヤ人が食さない汚れた動物や鳥が入っていて、主は「これらをほふって食べなさい」と言われた。ペテロは「こうしたものは食べたことがありません」と言って拒んだ。そこで、主は「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」と言われた。この幻をとおして、ペテロは異邦人に対する偏見を解かれ、コルネリオの家を訪ね、彼に洗礼を授けたのである。ペテロはコルネリオと家の者たちに向かって、神は人を偏り見ない、どの国民であれ、神を畏れ求める者に救いを与えられることを述べ、キリストの十字架と復活、罪のゆるしと救いを語り伝えた。それらを語り終える前に、コルネリオら一同に聖霊がくださり、彼らは神をほめたたえたという。
私たちのうちには、人を偏り見る傾向がある。今ここで福音を語ることなど場違いであると思い込んだり、この人に福音を伝えるなどとんでもない、反発を受けるだけで何の甲斐もないと思ったりする。しかし主は言われる、「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい」(第二テモテ4:2)。それが時機にかなったものかどうかは、主が決めることである。だれが主を求めているのか、私たちは主のように、人の心を探り知ることはできない。






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