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使徒行伝17章27節

  • 執筆者の写真: Pastor
    Pastor
  • 2024年5月2日
  • 読了時間: 2分

更新日:2024年10月16日

こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。


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このみ言葉は、パウロがアテネの人々に語った説教の一部である。


迫り来る迫害者の追跡があり、パウロはシラスとテモテをベレヤに残し、一人、あの学問の都市アテネへ行った。市内には数多くの偶像があり、パウロは憤りを感じ、会堂に行き、あるいは広場に行って、そこで出会う人たちと論じ合った。そこには、エピクロス派やストア派など哲学者などがおり、パウロは彼らと論を戦わせた。アテネの人たちは知的な関心が高く、「何か耳新しいことを話したり聞いたりすることのみに、時を過ごしていた」(21節)という。ここでの成果はあまり期待できなかったが、アテネでのパウロの伝道のアプローチは大変興味深い。彼は街の人たちと言葉を交わし、街の様子を観察し、彼らの心に届く言葉を探して語っている。


創造の神、その神によって人は生み出され、その恵みの中に生かされている。にもかかわらず、人は神ならぬものを拝んでいる。その生き方を変え、即ち悔い改め、神が世に送りよみがえらせた救い主を信じて、真の神に立ち返り、救いにあずかるべきことを説いた。


ところが、アテネの人々は復活の話を聞いてあざ笑い、あきれかえった。ギリシャ人の思想の根底には二元論があったからである。世界は霊・精神と物質から成り立っている。霊は尊いものであるが、物質は汚れたものである。だから、ギリシャ人は、身体という物質から解放されることに救いがあると考えていたので、その身体が復活するところに救いがあるという教えはナンセンスだったのである。それでも、パウロは聖霊によって語り、少なからず救われる者が起こされ、アレオパゴスの裁判人デオヌシオとダマリスという女の人が信仰に導かれた。


私たちもまた、祈り、聖霊に導かれて、一度も聞いたことのない人にキリストの福音を、神がわが身になされた救いのみわざを語るなら、その証は決して無に帰することはない。その人の心にとどまり、きっとその心に神を信ずる思いが芽生えるにちがいない。




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