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詩篇27篇1-4節

  • 執筆者の写真: Pastor
    Pastor
  • 2025年8月22日
  • 読了時間: 2分

主はわたしの光、わたしの救だ、わたしはだれを恐れよう。主はわたしの命のとりでだ。わたしはだれをおじ恐れよう。

わたしのあだ、わたしの敵である悪を行う者どもが、襲ってきて、わたしをそしり、わたしを攻めるとき、彼らはつまずき倒れるであろう。

たとい軍勢が陣営を張って、わたしを攻めても、わたしの心は恐れない。たといいくさが起って、わたしを攻めても、なおわたしはみずから頼むところがある。

わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。


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悪らつな敵の奸計(かんけい)や攻撃にあっても恐れることはない。主なる神が私たちの光となり、救いとなり、命の砦となってくださるからだ。絶望の渕に追い込まれても、主を信じるなら「なお頼むところがある」(3節)。だから、一つの事を願う。それは神ご自身であり、目には見えないが、目で見るよりも確かな神の臨在である。


「主の家に住む」とは、週に一度、日曜日(主日)に教会に来て神とお会いし、神を礼拝するということである。そして、毎日の生活の中で、朝あるいは夕に、神と共に過ごす時間を持つことである。それを「デボーション」と呼んでいる。“Devotion”は献身という意味だが、生ける主との交わりのためにこの世との関わりをある一定の時間遮断して、心と体と時間を神にささげ、主との交わりに専念、没頭、集中することである。聖書通読箇所を読み、祈って神と交わる。.


これを一生涯持続してゆくための秘訣は、楽しいもの、慕わしいものとすることである。楽しい、慕わしいものとなるためには、この「主のうるわしきを見る」(4節)という経験をすることである。主は、この世でもっとも麗しい明けの星、谷間の百合、シャロンの花にたとえられる。そのような主とお会いする、その臨在に触れること、それが「主のうるわしきを見る」という経験である。


「主を尋ねきわめること」、それは神とお会いし、神からみ言葉をいただくまでは席を立たないことである。主とお会いせずして、一週間が始められず、一日を送ることができない。そのような気迫をもってデボーションに取り組みたい。



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