イザヤ書43章25節をいただいて
- 来主 珠里(July Cross)

- 2023年1月31日
- 読了時間: 2分
自分の罪を深く知るということは、キリスト者にとってとても大事だと私は思っています。なぜなら、自分の罪を深く心に刻んでおくと、神様にどれほどまでに愛されて赦されたかが分かるからです。
私の場合、なかなか自分が神様に赦されているということが実感できませんでした。
そのわけは、人間の常識として「自分がやった悪いことを他の人に擦りつけてはいけない」と思っていたからです。よって、私はなかなか〝キリスト者の自由〟が得られないでいました。
でも、ある時、「神様が私を赦してくださっていると仰られるのに、自分自身が自分を赦していないとは、なんと罪深い思いを持っているのだろう」と私は思いました。「自分以外の者に自分の罪を擦りつけてはいけない」という人間世界の常識――けれど神様の目からは律法主義――を用いて自分で自分の首をしめて、神様の赦しに背いている自分がいたことに気づいたのです。
「他者を裁いてはいけない」というのは聖書に書いている通りです。けれど、私たち人間は〝自分も〟裁いてはいけないと気づいたのです。
なぜなら、裁くお仕事は父なる神様だけが行われることで、人間のやってよいことではないからです。生死が神様の領域のものであるように、裁きも神様の領域のものであり、人間は手を出してはならないものなのです。
私は、自分の罪深さを忘れることはありません。そして、神様も私の罪深さを忘れることはありません。でも、今日のデボーションの聖書箇所で神様は語られます、「あなたの罪を思い起こすことはない」と。「忘れる」のではありません。「知っているけれど、目を瞑って」くださるのです。
こんな私であっても良いと赦してくださる神様からいただく真の自由を謳歌したいと思います。






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