コリント人への第一の手紙1章13-17節
- Pastor

- 2022年11月18日
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キリストは、いくつにも分けられたのか。パウロは、あなたがたのために十字架につけられたことがあるのか。それとも、あなたがたは、パウロの名によってバプテスマを受けたのか。わたしは感謝しているが、クリスポとガイオ以外には、あなたがたのうちのだれにも、バプテスマを授けたことがない。それはあなたがたがわたしの名によってバプテスマを受けたのだと、だれにも言われることのないためである。もっとも、ステパナの家の者たちには、バプテスマを授けたことがある。しかし、そのほかには、だれにも授けた覚えがない。いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。
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誰に導かれ、誰によってバプテスマ(洗礼)を授けられたかは、重要なことではない。救われたのはキリストご自身であり、洗礼は父と子と聖霊の聖名によって授けられるからだ。「誰が」ということに固執するなら、神に栄光が帰されず、人があがめられる危険がある。エチオピヤの宦官を導き洗礼を授けたピリポのように、その役目を果たしたなら、その場に踏みとどまらないのである(使徒8:39)






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