コリント人への第一の手紙6章1-9節
- Pastor

- 2022年12月20日
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あなたがたの中のひとりが、仲間の者と何か争いを起した場合、それを聖徒に訴えないで、正しくない者に訴え出るようなことをするのか。それとも、聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。そして、世があなたがたによってさばかれるべきであるのに、きわめて小さい事件でもさばく力がないのか。あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である。ましてこの世の事件などは、いうまでもないではないか。それだのに、この世の事件が起ると、教会で軽んじられている人たちを、裁判の席につかせるのか。わたしがこう言うのは、あなたがたをはずかしめるためである。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することができるほどの知者は、ひとりもいないのか。しかるに、兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか。そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。しかるに、あなたがたは不義を働き、だまし取り、しかも兄弟に対してそうしているのである。それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。
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前任の教会時代のことであるが、教会内で明らかに道徳的に問題を犯した人、異端の集会に出席し続けていた人があり、教会員に悪影響が及ぶ危険があったので、注意したことがあった。その注意に従わなかったので、役員会でも話し合い、礼拝出席、その他の集会への出席を停止したことがあった。これは、教会の中で誰もつまずく人がないように、取らなければならない処置だった。非を指摘することは、「この人は駄目だ」と烙印を押すという意味のさばくことではない。非がなければ、弁明すればいい。相手が事実、非があってそれを認めれば、赦しが起こるのである。
「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」(「主の祈り」より)。






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