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コリント人への第二の手紙3章18節

  • 執筆者の写真: Pastor
    Pastor
  • 2024年5月17日
  • 読了時間: 3分

更新日:2024年10月9日

わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。


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今朝は、上掲の聖句の前半部分である。鏡のように主の栄光を映すように見るというのは、主の栄光を見れば、私たちは滅んでしまうからである。だから、鏡を介して、間接的に見るということである。この背景にあるのは、出エジプト記33章である。この33章に書かれていることを解き明かさないと、このことは語れない。


人がその友と語るように、主はモーセと顔を合わせて語られた。(出エジプト記33:11)


モーセがシナイ山に登り、十戒を授かる。その間、待てど暮らせどモーセは戻らない。民たちはしびれを切らし、アロンに金の子牛を造らせ、偶像礼拝に陥る。神は憤られ、イスラエルの民を滅ぼすと言われる。神の民はモーセの子孫がなればいいと言われる。すると、モーセはその破れ口に立って執成しをする(詩篇106:23)。「この民を見捨てて滅ぼすと言われるのなら、神の命の書から私の名を取り去ってください」とモーセは言ったのである。この執成しによって神は思い直される。この話はそれで終わらない。どうしてもモーセはその確証を得たかったので、「どうぞ、あなたの栄光を私にお示しください」(出エジプト記33:18)と言う。これはあり得ない前代未聞の嘆願である。神は、「神の栄光を見たら、あなたは死ぬ」と言われた。しかし、モーセは譲らない。それで、条件付きでそれを神は叶えられる。神がモーセの前を通られる。しかし、神はその時、モーセを岩の裂け目に入れて、神のご自身の手でモーセを覆った。モーセを死なせたくなかったからだ。ただ通り過ぎられる時、神の後ろ姿を見せられたという。神は永遠の神であり、目に見えない。それでは「顔を合わせる」「後ろ姿」とはどういうことなのか、比喩か、子なる神の子をさすのか、よくわからない・・・。


私たちは目で見たことが、私たちの知覚の中でもっとも確かなものだと思っている。「百聞は一見にしかず」と言われる。しかし、目に見えることがかえって事の本質を見失わせる。霊的なこと(speritual things)が特にそうである。弟子たちがそうであった。三年半、イエスと寝食を共にしたが、最後のところでは、イエスの何もかもを見失ってしまった。彼らがイエスのこと、特に十字架と復活について知ったのは、ペンテコステ以後である。聖霊が来られ、その本当のところを明かされて、イエスのことがわかったのである。それは聖霊によって現わされ、聖霊によって語られる時に、見るよりも確かに知るからである。聖霊が働かれる時、目で見るよりももっと明らかに、主がおられることを確信させる。知性でわかるよりも、神のこと、主のことがわかる。その時、私たちもまた、モーセがface to face主と交わったように、だれをも介せず、主と交わりに入れられるのである。




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