コリント信徒への第一の手紙3章6節をいただいて
- 来主 珠里(July Cross)

- 2023年1月22日
- 読了時間: 3分
やることを一生懸命やったら、あとは主に委ねる――その繰り返しをしていると、気づかぬ内に大きなことが出来ていることがあります。
私は教会生活を送るようになって直ぐに御奉仕をいろいろとやりました。礼拝の進行の中には入っていませんでしたが、牧師会の料理の提供をやったり、花壇の手入れをやったり、洗礼服を徹夜で作ったり…様々なことをやりました。今考えると〝救われた勢い〟でやっていたと思います。当時の牧師先生に「長い道のりだから急ぎすぎると息が切れるよ」と言われたのを思い出します。
そして、その通り、仕事や家族の様々なことが出てきたこと、それによって体調不良になったことで結局、息切れし、中途半端に辞めてしまいました。
その後、10年間ほど礼拝堂の中ではなく、二階の会議室でモニター越しに礼拝を受けていました。コロナ以前のことですから、良く言えば教会にいながら感染対策のリモート礼拝、悪く言えば、持病の腰痛も手伝い、体調不良による〝逃避〟でした。
長いことボーっとモニター越しの礼拝に通う日々でしたが、何となく自宅で聞いたラジオ説教が心に留まり、そこから教会での説教も食い入るように聞くようになりました。
今思うと、それは野良でいうところの〝発芽〟だったのだと思います。
今現在、礼拝のでの賛美御奉仕や日曜学校の御奉仕をしています。そんな今の自分を客観的に見ると、長いこと二階の会議室で礼拝をしていたのが不思議でなりません。
御奉仕を通じて、賛美の未熟さを、そして自分があまりにも〝何も知らない神の芽〟であることを思い知らされましたが、主は学びの場を教会の内外に多く与えてくださり、それを通じて私は自分でも思わなかった方向へと成長し続けています。その成長が後退することもあり、そういう時は周囲からの風当たりも強くなりますが、それは二歩進んで一歩下がるようなものなので、ちゃんと一歩は進んでおり、真直ぐに大いなる御方だけを見つめていれば、風でなぎ倒されることはそう簡単にはなく、かえって主が励ましをくださり、立ち直るのが容易です。
〝発芽〟から〝緑葉〟が出てきています。感謝なことです。
けれど、私ひとりが主に大事にされているわけではありません。
デボーションの筆者は、教会の一人ひとりが大切だと語っています。本当にそう思います。
世の中には色々な野菜があります。主は多種の野菜を創造されて、私たちはその栄養バランスによって健康に生きられます。
同様に、教会の人々も色々な思いやご性格の方たちがおられます。互いに意見や感性が合わないこともあるでしょう。でも、主は、多種の人々を創造されて、私たちを快く味わいたいと思っておられると感じます。
誰一人 腐った野菜になってはならないと私は思っています。今、用いられていない方は、後に主が用いるように準備中、つまり種に水を吸わせている段階だと思います。用いられている人々に対してつぶやいてはなりません。用いられている者も永遠にはできません。いつか退く時が来るのです。その時のためにつぶやかずに、静かに主のくださる水を栄養としていなければなりません。
私自身も含め、教会の誰もが健やかな信仰であるように祈ってゆきたく思います。






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