マタイによる福音書13章23節
- Pastor

- 2023年6月13日
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また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。
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ここに「種まきのたとえ」がある。これを題材に描かれたミレーの「種まく人」の絵画をご存じだろうか。農夫は袋を肩にかけ、無造作に種をまいている。あるものは道端に落ちた。踏み固められているので、種は土にもぐることができず、そのうち、鳥が飛んできてついばみ食べられてしまった。次の種は、石地に落ちた。薄っすらと土があったので急速に芽を出したが、根が石地に阻まれ、根付かず枯れてしまった。さらに茨の中に落ちた種は芽を出し葉を広げたが、茨にふさがれ育たなかった。最後に落ちたのは良い地だった。種は健やかに育ち、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍の実を結んだ。その解き明かしを、このたとえを語られた主イエスご自身が密かにされた。
種は神のみ言葉、まかれた場所は私たちの心をさしている。「道端」は、心をかたく閉ざしている人である。み言葉を拒否する心でもあり無関心な心でもある。「石地」は、熱しやすく冷めやすい心である。「茨の中」は、この世の富や快楽の誘惑、人づき合いなどで、求めたのに中断させられてしまう例である。「良い地」はよく耕された畑をさす。畑は最初からあったものではない。農夫によって耕されたものである。誰しも、道端であり、石地であり、茨の中なのである。自分の心の有様を認め、「主よ、私の心を耕してください」と祈るなら、誰もが良い地となって、み言葉が私たちの心の中にとどまり、実を結ぶのである。百、六十、三十倍という数字が興味深い。なぜ、百、十、二倍ではないのか?私もよくわからない。ただ大きい数字から小さい数字となるのは、結実が私たちの努力ではないことをさしている。結実の力はみ言葉の中にあって、結実は神のなされることである。つまりは、み言葉を受ける私たちの心が、神が願っておられるように広く開かれ、柔らかく素直であれば、百倍の実を結ぶ。心の開かれようによって個人差が生じるのである。「神さま、もう少し待ってください。そのうちに・・・」という人にも、神は忍耐強く待ってくださり、ためらわず恵みを与えてくださるのである。






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