マタイによる福音書13章3節
- 来主 珠里(July Cross)

- 1月2日
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イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。......」。
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譬えは、ただ比較するためのものではなく、しばしば格言でもあります。譬えには、霊的な事柄が説明されていますから、それは自然の事象によって例証される示唆的な会話のようなものです。物語は文字通りの意味もありますが、それを解釈(説明)することは霊的なものです。ただ、それを文字通りの意味にとどめるのは致命的な誤りです。霊的な意味は、譬えを生き生きとしたものにするのです。
譬えを用いる話法は中東では一般的なものです。譬えは、人々の注意を引き、集中させ、謙虚で真面目な聞き手に対して、それが心により深く届くように心理をもたらします。しかし、正義と憐れみの荘厳な調合によって、高慢や軽率な者には真理を隠すのです。
すべてのものにとって、この譬えはなんと素晴らしく、適切な導入でしょうか。
この譬えにおいて、私たちの主は明白で最も重要な問いに答えられます。種蒔きをするキリスト、そのキリストによって送られた説教者たちは、同じ種を蒔きます。しかし、なぜ同様の効果をもたらさないのでしょうか。
私たちの手は、それらが生じる同じ順序によって、実を結ばせることへの大きな障害を指摘しています。最初の危険である「鳥」は種をついばむのです。鳥から逃れたとしても別の危険が待っています。しおれ枯れてしまうのではないかという危険です。この後もとげが出て良い種をふさいでしまい、わずかしか実を完全に実らせないのです。
主よ、どうか、私たちを、身を結ぶことのできるわずかなものとしてください。






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