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マルコによる福音書10章45節

  • 執筆者の写真: Pastor
    Pastor
  • 2023年7月20日
  • 読了時間: 1分

人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。


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ゼベダイの子、ヤコブとヨハネは、他の弟子たちを出し抜いて、「主が栄光をお受けになる時、われら二人に、一人は右に一人は左の座に着かせてください」と願った。傍でその話を聞いていたほかの弟子たちは憤慨した。主が「あなたがたは何もわかっていない」と言われたが、確かにそうであった。主がエルサレムに行って受けようとしていた栄光は十字架であったからだ。二人が主の両側に置かれることを願うのであれば、主の右と左に十字架にかかることになるのだ。この世にあって、人は偉くなって上に立ち、権力をふるうことを願う。しかし、教会においてそうではない。偉くなりたいと思う者は仕える者となり、かしらになりたいと思う者は僕になるのである。


主は、人に仕えられる立場にありながら、かえって人に仕え、私たちを救うために十字架にかかり、ご自身の命を与えられたのである。私たちも主にならう者でありたい。





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