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マルコによる福音書10章45節

  • 執筆者の写真: Pastor
    Pastor
  • 2025年7月23日
  • 読了時間: 2分

人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。


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ゼベダイの子ヤコブとヨハネは主イエスに向かって、「あなたが栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左に坐らせてください。」と懇願した。今しがた、主が自らの十字架の苦難と死、そして復活について予告したばかりなのに。主の心と彼らの心とは何と果てしなく遠いことか。主の左右に着座するとは、主が天の御国で王として君臨する時、その王に次ぐ権力を有することである。人は権力や名誉を欲しがる。特に、男性がたぶんにそうである。「あなたがたは何を求めているのか、わかっていない」と主は言われた。神の国は、神のみが絶対的な主権をもって支配する処であって、何ものも支配することはない。神の前にあってすべての人は等しい。「偉くなりたいと思う者は、仕える人になりなさい。人の上に立ちたいと思う人は、すべての人の僕になりなさい」と主は言われた。神の国の門口と言われる教会においても同じである。牧師も信徒も、役員も一般信徒も同じである。むしろ、牧師や役員はへりくだり、僕となって仕える人でなければならない。それは、その模範にならって教会員同士が互いに仕え合うようになるためである。「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。」(45節)。神である方が人となってこの地上に来られ、僕となって、人に仕えた。そして、ご自分のいのちまでも惜しまず与えてくださったのである。私たちも主にならってへりくだり、互いに仕える者、与える者とならせていただきたい。



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