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マルコによる福音書6章3-4節

  • 執筆者の写真: Pastor
    Pastor
  • 2025年7月4日
  • 読了時間: 2分

この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」。こうして彼らはイエスにつまずいた。イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」。


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主イエスは、郷里ナザレに行き、安息日に会堂(シナゴグ)で聖書の言葉を説き明かされた。このような知恵はどのようにして得られたのか、いやし、悪霊の追放、それらの力あるわざはどこから得られたものなのか。ナザレの人々は、イエスの両親や家族のこと、その幼少の頃を何もかも知っていたので、その目に見えることにとらわれてつまずき、神の知恵と力、救い主の姿を見ることができなかった。


信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。(へブル11:1)


預言者エリヤはカルメル山の頂に登り、そこで雨が降るように、顔を両ひざに間に入れて祈った(列王紀上18:42)。イスラエルには当時、三年間雨つゆが一滴も降らなかった。エリヤの頭上には雲ひとつない大空が広がり、さんさんと太陽が照り輝いていた。その太陽と青空を見たら、さすがに信仰の勇者エリヤと言えども信仰がなえた。だから、そんな恰好をして祈ったのである。そしてしばらく祈ると、エリヤは従者に空模様を尋ねた。従者は答えた。「何も変わりません」。それから六度祈ってはその都度従者に空の様子を尋ねたが、何も変わらなかった。そして七度目祈って尋ねたところ、従者は「海の方から手ほどの雲が起こっています」と言った。それから空が暗くなって風が吹き、激しい雨が降り出した。


私たちは目に見えることに翻弄される。目を閉じ、祈りの中で目に見えない永遠の神をあおぎ見、神の御声を聴き、神の臨在に包まれ圧倒されるものでありたい。


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