マルコによる福音書9章21-29節
- Pastor

- 2025年7月17日
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そこで、イエスが父親に「いつごろから、こんなになったのか」と尋ねられると、父親は答えた、「幼い時からです。霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。イエスは群衆が駆け寄って来るのをごらんになって、けがれた霊をしかって言われた、「言うことも聞くこともさせない霊よ、わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度と、はいって来るな」。すると霊は叫び声をあげ、激しく引きつけさせて出て行った。その子は死人のようになったので、多くの人は、死んだのだと言った。しかし、イエスが手を取って起されると、その子は立ち上がった。家にはいられたとき、弟子たちはひそかにお尋ねした、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。すると、イエスは言われた、「このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出すことはできない」。
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霊的に昂揚する経験をして山を下りると、そこには信仰に立てず、現実に翻弄される世界が待っていた。居残り組だった九人の弟子たちを多くの人たちが取り囲み、議論していた。「あなたがたはいったい何を議論しているのか」と主イエスが尋ねると、主がおいでになったことに驚き、群衆の一人が主のところに来て状況を説明した。「先生、おしの霊につかれている私の息子を、こちらに連れて参りました。霊がこの息子にとりつきますと、どこででも彼を引き倒し、それから彼はあわを吹き、歯をくいしばり、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした」。それを聞かれた主は「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまで、あなたがたに我慢ができようか」(19節)と嘆かれた。
主イエスは「信ずる者には、どんな事でもできる」(23節)と言われた。素晴らしい神の約束の言葉であると同時に、私にとっては怖い誘惑の言葉でもある。何でも思いどおりになるということから、自分がわがままになり、人として信仰者として何ら成長を望まない、高慢な者になり果ててしまわないだろうかという心配である。だから、心してこのみ言葉を受けとめねばならないと思う。それは自分の欲望のためではない。自分の都合や利得のためでもない。ここにある事例のように、悪霊によって神の恵みと救いから遠ざけられ、滅びに至らせられようとしている人たちの救いのため、悪霊によって苦しめられ、おおよそ、神がいらっしゃるとは思えない、地獄のような苦しみを味わっているような人たちが、その苦しみから解放され、神が本当にいらっしゃると心から思えるようになるためである。そうした人たちの救いのために「どんなことでもできる」という信仰に立たせていただきたい。
「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません」(29節)。弟子たちは過去の経験と知識にしたがい、悪霊を追放しようとした。どんなに信仰歴が長くともキャリアによらない。いつも初心に帰っての祈りなのである。生きることに絶望し滅びに向かっている人々を目のあたりにしながら、ただ空しい議論に明け暮れていないだろうか?目を伏せ、ぼんやりとしていないだろうか?人々の救いのために心を注ぎだして祈る者でありたい。






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