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マタイによる福音書26章36-38節

  • 執筆者の写真: Pastor
    Pastor
  • 2024年3月11日
  • 読了時間: 2分

更新日:2024年11月23日

「ゲッセマネの祈り その1」

それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。


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主イエスは、「最後の晩餐」の後に弟子たちを連れてゲッセマネの園に行った。祈りの中で、十字架の苦杯を受ける最後の決断をするためである。


ペテロとゼベダイの子ヤコブとヨハネについては、すぐ傍にはべらせ、祈った。主は「悲しみのあまり死ぬほど」と言われ、ルカ22:44には、「苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた」とある。その耐えがたい苦悩の祈りをささげる中で、傍近くあって支えてほしいという思いがあったからだろう。


ところが、三人は、主が祈りの格闘をしている間、居眠りをしていたのである。何の支えにもなっていない。主が十字架の道を進もうとした時に、ペテロがいさめたようなことが起らないとも限らず、眠っていてくれた方がまだ安全であったのかもしれない。


それならば、何故、彼らを傍にはべらせたのか?それは、主が祈られる姿のほんの一瞬でも見せるためであったのではないか。キリストの受難における、もっとも激しい戦いはゲッセマネであった。ここで勝利をとったことによって、主はあらゆる苦難に甘んじることができたのである。私たちは主にならって、祈りにおいて戦い、勝利を先取りすることを学び、身につけることができたらどんなに幸いであろうと思う。




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