ルカによる福音書11章8節
- Pastor

- 2023年8月28日
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しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。
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主イエスのたとえである。
真夜中に友が訪れた。旅の疲れと共に彼は空腹状態だったが、パンはなかった。それで、近隣の家にパンを借りに出かけて行った。彼は戸をたたき、「パンを三つ貸してください。友だちが旅先から私のところに着いたが、何も出すものがないのです」と言った。すると、家の主人は戸を開けることもしないで、「面倒をかけないでくれ。戸は閉めてしまったし、やっと子どもを寝かしつけたのに起きてしまうではないか。起きてパンを渡すことなどできない」と言って断った。ところが、パンを借りにきた人はあきらめずに、さらに増して激しく戸をたたきつづけた。すると、家の主人は思った。「たとい、友だちだからと言っても、こんな時間に起きて与えることをしないが、戸をたたきつづけてうるさい。このままにしていたら、子どもは起き出すし眠ってなどいられない」。それで、しぶしぶ起きてパンを与えたという。
このたとえは、祈りの本質を私たちに伝えている。それは、祈りとは、祈りつづけるものであるということである。祈りつづけ、祈りは祈りとなる。二、三度祈っただけでは祈りとなっていない。ただ「こうあったらいいな」ということにとどまっているのである。祈りつづけるなら、「なんとしても、この祈りに応えてもらわねばならない」という切実なものとなってゆく。そして、それが友のためであるならば、「友のためになんとかしてあげたい」という、友への愛が育てられ深められてゆく。祈りつづけるならば、神は必ず答えを与えられる。その人の祈りが、本来の祈りになることを待っておられるのである。そして、祈りの中で私たちの信仰は育つ。






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