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ルカによる福音書1章39-45節

  • 執筆者の写真: Pastor
    Pastor
  • 2024年12月14日
  • 読了時間: 2分

そのころ、マリヤは立って、大急ぎで山里へむかいユダの町に行き、ザカリヤの家にはいってエリサベツにあいさつした。エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、その子が胎内でおどった。エリサベツは聖霊に満たされ、声高く叫んで言った、「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。 主の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう。ごらんなさい。あなたのあいさつの声がわたしの耳にはいったとき、子供が胎内で喜びおどりました。主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」。


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聖霊による受胎ということは、誰にも理解し得ないことだった。聖霊の光によって啓(ひら)かれて初めて理解し得る真理、出来事である。マリヤは思いがけず、救い主の誕生という大いなる使命を負うこととなり、理解し、共に祈って支援してくれる人を求めていた。それはヨセフではなく、エリサベツだった。この人の他にないと思って、足早にユダの町に住むエリサベツを訪ねた。ドアをたたき、戸を開けた瞬間、その願ったとおりの人であることがわかった。エリサベツはマリヤにとって遠い親戚にあたるが、初対面であったのではないか。エリサベツは祭司の妻であり、祖母と孫ぐらいの年齢の開きがあった。しかも長年主に仕える敬虔な信仰者だった。にもかからわず、「主の母上が私のところに訪ねて来てくださるとは、なんと光栄なことでしょう」と、マリヤに対して敬意を表している。年齢の隔てを超えた二人の信仰の交わりに、なんとも心惹かれるシーンである。


45節「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」。神がお語りになるという経験をすること、神の言葉が心に迫り、神の言葉は必ずそのとおりになると信じきることのできた人、その人こそ、さわいな人である。




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