ローマ人への手紙6章14節をいただいて
- 来主 珠里(July Cross)

- 2023年1月21日
- 読了時間: 2分
人と会話をする時も、歌や楽器を奏でる時も、様々な仕事をする時も、あらゆる時に主を想うことができたら素晴らしいと感じます。
私は実際、今現在、それに近い生活をしています。このデボーションの時間もそうですが、普段の生活の8割が、主に心が向いたまま生活しています。牧師でもありませんし、そういった職業にあるわけでもありませんが、教会御奉仕や多くのキリスト教学習の中にあって、自分でも気づかぬ内に、あらゆる日常の物事を通して、聖霊がみ言葉を泉のように湧き立たせてくださり、否応なしに主に心が向いてしまいます。
あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
第一コリント10:31
聖(きよ)い生活をするために、上記のみ言葉を実行しようとしているわけではありません。良い信徒になろうと優等生ぶろうと頑張っているわけでもありません。
極々、自然の流れで、聖霊が指し示すのです、「主の聖さはこちらだよ」を。
自分の罪深さは自分が一番よく知っています。そして、その罪は修正しようと思っても出来ないことばかりだったりします。けれど、デボーションの筆者が記されている通り、「然り」とそういった自分を認める時、くだらない自我から解放され、イエス様が大きな味方になってくださり、ほんの僅かずつですが、神へ神へ…と心が近づいていくのが分かります。
もし、神の栄光を現すために無理やり「聖くならなければならない」と思い、行動を起こせば、あらゆることに歪みがきて、聖くならない自分を苦味をもって味わってしまい、今までやらなかったはずの大罪を犯してしまうかもしれません。
教会ではよく「主に委ねよ」と教えていただきます。「委ねようとしても、委ねられない」と言われる方もおられますが、〝委ねる〟ということは、〝自然な流れに乗る〟ということのように思います。自然な流れに乗らずに自分の思いを掴んでいるということは、詰まるところ、それは自我であり、自我は〝委ねること〟とは間逆の行為です。
聖くなることも同じことだと思います。主のくださる自然な信仰の流れに身を任せて乗ることで、徐々に聖さに向かうのだと感じます。そこに自由を謳歌できる喜びがあると思っています。
「聖化」という電車に乗っている道中が、一番、神のくださる「自由」という景色を楽しめるように思うのです。






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