top of page

ローマ信徒への手紙9章30節

  • 執筆者の写真: Gates to Devotion
    Gates to Devotion
  • 2023年9月24日
  • 読了時間: 2分

では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。


*******


「義を得る」という言葉は、私たちの日常では、ほとんど使わない言い回しなので、ありありと内容をイメージしにくいのではないでしょうか。それであえて「存在を認められる」と日常イメージに翻訳し直してみましょう。存在を認められるか否かは私たちにとって死活問題です。問題は何を基準に「存在を認められるか」です。


普段私たちは、業績によって存在を認めてもらおうと考え、行動しています。業績評価が高いと嬉しいし、低いと悲しいものです。世間はその価値観が支配していて、待遇は業績評価に比例します。それ自体が悪いわけではありませんし、また現実にその価値体系から逃れられるわけでもありません。このように、「業績を認める」ことと「存在を認める」こととは分離されません。しかし福音はそれを「区別」しなさいと告げています。「業績」と「存在」とは区別されなければならないのです。


功成り、名を遂げたある社長が退任して後、中元や歳暮の類が激減したのを見て「世間は恩知らずだ」と怒っていたという人が語っていました。この元社長は、業績と存在と一体化して混同しています。中元や歳暮は、彼の役職(業績)に送られていたのであって、必ずしも人格存在に送られていたわけではありません。


「律法」、つまり「禁止命令と当為命令」は不要でも無効でもありません。大切な倫理です。しかし、その倫理貫徹の延長線上、すなわち、業績に存在の安心はありません。「存在を認める」のはイエス・キリストの贖罪愛、すなわち、神の無条件の愛です。「信仰による義を得る」とは、言うなれば、福音による自然体に身を委ねることです。私たちは業績にも実績にもよらず、キリストの贖罪愛によって存在を認められています。そこに私たちの目指す自然体があります。


木にたとえれば「存在の無条件認知」は根です。「律法」は幹です。実績・業績は花、実です。木を育てるためには根を育てなければなりません。私たちが礼拝を毎週捧げるのは、「存在の無条件認知」という根に肥料を注いでいただくためです。




コメント


bottom of page