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創世記22章12節

  • 執筆者の写真: Pastor
    Pastor
  • 2月3日
  • 読了時間: 2分

み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。


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アブラハムの信仰生涯のクライマックスは、彼にとって最大の試練となった、このイサクの奉献である。試練は、あやまちや罪に対する神のさばきや処罰ではない。その根底にあるのは神の愛である。私たちの信仰が高められ、成熟するために与えられるものである。とは言うものの、わが子を祭壇の上に置き、刃物をふり下ろし、殺すということが果たしてできるだろうか。わが子が病で床に臥し瀕死の状態にあれば、自分が代わりたいと切に思う。アブラハムは、神に「イサクをささげよ」と言われた日の「翌朝早く」(3節)、イサクを連れモリヤの山に向けて出発した。目的地に着くまで3日間を要したという。日を待たずに決断したアブラハムの潔さ以上に、3日間を耐え忍んだ信仰と勇気に感心する。彼の心中には様々な思いがよぎり、葛藤にさいなまされたにちがいない。モリヤの山にたどり着き、いよいよ祭壇の上にイサクを載せほふろうとした時、御使いはアブラハムを羽交い絞めにし、主はこれを止められた。そして、「あなたはひとり子さえ惜しまず、神を畏れる者であることがわかった」と言われたのである。


信仰は従うことである。そして神に従う場合、先が見えず、算段がつかない。主導権は主が持っておられるからだ。神に従う時に、失うものがある。しかし、それにまさったものを主は必ず備えて下さる。「アドナイ・イルエ」(主の山には備えがある)。「イサクの奉献」という信仰の高峰の向こうに、主の十字架が見える。神こそがわが子をささげられた方である。ご自身の命より大切なひとり子をささげ、私たちを救い、愛を表わして下さったのである。




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