創世記22章14節
- Pastor

- 2023年5月9日
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それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。
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22章は、イサクの奉献の記事である。
神がアブラハムを呼ぶ。彼はいつものように「ここにおります」と答える。神が言われる。「モリヤの山に行き、あなたの子、イサクをささげなさい」と。「神様、今、何とおっしゃいましたか」と耳を疑い、聴き直したとは書いていない。翌朝早く、燔祭のたきぎをろばの背にくくりつけ、イサクを連れてモリヤの山をめざしたとある。神のおっしゃられたことに間違いはない。神の言葉に従うことに揺らぎ、迷うことがないように朝早く出立したのである。道中、「お父さん、燔祭の火とたきぎがあるのに、ささげる小羊はどこにありますか」とイサクに尋ねられた時は、アブラハムはどんなに恐ろしい思いをしたことだろう。「神自ら、備えてくださるのだ」と父は何事もないように答える。モリヤの山頂に着くと、イサクはたきぎの上に寝かせられ、アブラハムは刃物をイサクめがけてふり下ろそうとする。間髪を入れず、神はアブラハムを呼び止められた。「わらべを手にかけてはならない。あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが真に神を畏れる者であることを知った」と。気がつけば、一頭の雄羊がやぶの中に備えられてあった。そこで、アブラハムは、その場所を「アドナイ・エレ」、「主の山に備えあり」と呼んだ。
主は「自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしに従ってきなさい」と言われる。それはもっとも大切なものを主の手に明け渡すことである。神に第一の座を明け渡すことである。もっとも大切なものを第二に据えるのである。そうすれば、「主の山に備えあり」。第二に置いたものを再びあなたの手に返し、それを幾倍にも祝福されるのである。子を神以上のものとすれば、溺愛しかえって子ども駄目にする。財やお金も同じである。それに溺れてしまうのである。距離をとることが大切である。しかし、人はなかなかそれができない。しかし、神を第一にするなら、神は、人と大切なものの間に入られて、もっとも良い距離をとってくださるのである。






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