詩篇142篇1-7篇
- Pastor

- 2025年12月30日
- 読了時間: 3分
わたしは声を出して主に呼ばわり、声を出して主に願い求めます。
わたしはみ前にわが嘆きを注ぎ出し、み前にわが悩みをあらわします。
わが霊のわがうちに消えうせようとする時も、あなたはわが道を知られます。彼らはわたしを捕えようとわたしの行く道にわなを隠しました。
わたしは右の方に目を注いで見回したが、わたしに心をとめる者はひとりもありません。わたしには避け所がなく、わたしをかえりみる人はありません。
主よ、わたしはあなたに呼ばわります。わたしは言います、「あなたはわが避け所、生ける者の地でわたしの受くべき分です。
どうか、わが叫びにみこころをとめてください。わたしは、はなはだしく低くされています。わたしを責める者から助け出してください。彼らはわたしにまさって強いのです。
わたしをひとやから出し、み名に感謝させてください。あなたが豊かにわたしをあしらわれるので、正しい人々はわたしのまわりに集まるでしょう」。
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おおよそ、この詩篇は、敵の謀略から守り助け出してくださいと、主に祈っている「嘆きの歌」である。ただどのような場面でうたわれたかについては特定できず、特に7節「わたしをひとやから出し、み名に感謝させてください・・・」は、実際に、ひとや(牢獄)から解放されることを願っているということではなく、アシジのフランシスコは解釈しているように、「ひとや」は死をさしているのではないかとも思われる。
私たちの生涯に、先行きが見えず、恐れ、あせり、不安があって、「声を出して」(1節)、それは大きな声で叫ばずにはおれないような、そうした祈りをささげることがある。
私の経験から申し上げれば、声を出すことはよい。叫ぶことはなおよい。それは祈りが突き抜けるからである。単にこうあったらいいなという淡い願望ではなく、本当に自分が願い求めていることがひとつにしぼられ、突き止めることができるからである。「ああ、私が本心から願っていたことはこのことなのだ」と知るのである。
4節に「わたしは右の方に目を注いで見回したが、わたしに心をとめる者はひとりもありません。わたしには避け所がなく、わたしをかえりみる人はありません」とあるが、確かに、自分が本当に悩んでいる時は、「これは、だれにもわかってもらえないだろう」と思え、孤独の中にひとり取り残される。
三浦綾子さんも、あるエッセイの中で「人生は寂しい林の中をさまようようなものだ」と言っておられるが、肝心な時には、起こっている問題にひとり立ち向かわなければならない、というものではないだろうか。しかし、主を信じる者にとって孤独は、言い知れない恐怖では決してない。独りになって、そこに主なる神がおられるからである。私は決して一人ではないと思えるからである。
声を出して主に祈るときに、自分の本当の思いに到達し、私と会ってくださる主は、その場で私の思いを、私の嘆きを、私の心からの願いをしっかりと受け取ってくださるのである。
受け取っていただいたという、それが確かなることであれば、その心からの願いがきかれようと、きかれまいと、私にとってはどうでもよいことで、主がわかってくださったということで私の心は満ち足りているのである。私はもはや、あのどうにもならない問題から救われているのである。






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