イザヤ書30章19節をいただいて
- 来主 珠里(July Cross)

- 2023年9月2日
- 読了時間: 2分
今日は祈りについてデボーション箇所をいただいた。
私自身は、祈りの文言ややり方が若干 変化があったものの、幼い頃から「アーメン」の祈りは当たり前のようにやってきた。今の年齢になると、祈りは日々の歯磨きのようなもので、朝晩やらないと気持ちが悪い。心がすっきりしない時やざわめく時は朝晩以外にも祈りをしている時もある。神様からしてみると、「よく年中、電話をしてくる子だなぁ」と思われているかもしれない。
人は誰でも、誰かに頼らないと精神がどん詰まりになり、生きていくのがつらくなる。悩みや困難の中にいる時は尚更だろう。大抵の場合は、他者に話したり、相談したりするわけだが、私の場合は、何かご心配をいただいていたり、状況報告をしないと奉仕活動などに支障が出ることがない限り、悩みの相談はすることがない。
それは、年がら年中、祈りを通して神に話しているからだ。
よって、私の祈りに対する神の答えは、今日のデボーションでのみ言葉のように、「それを聞かれるとすぐ、答えてくださる」のである。
しかし、祈りを日課とできるようになるのは容易なことではないかもしれないと最近つくづく思う。
私の両親は受洗してまだ間もない。「アーメン」すら恥ずかしくて、礼拝では会衆と一緒にならどさくさに紛れて言えるものの、ひとりではまだ言えない。仕方ないので、主の祈りを毎日言うように私は導いたが、それも毎日とはできない。快楽的な物事があると、祈りよりもそちらに流れてしまう。
祈りから遠ざかるということは、同時に自ら神より遠ざかりやすくなるということだと私は思っている。両親は、自分達に神は必要だと分かっていても、神に横にどいてもらって生きようとしまうのである。所属教会の牧師はそれをお分かりになっておられるのだろう、両親に出来そうな奉仕作業をくださっている。奉仕作業を通じて、「自分がやる」のではなく、「神にやらせていただいている」と、自分や他者に感謝するより先に、神に感謝の祈りをささげられる人になるよう、牧師を通じて神が育ててくださっているのかもしれない。まことに感謝なことだ。
私たちが地上での人生の最期を飾る時、――その時の状況は人それぞれだが――布団の中で身動きの取れない状態かもしれない。それでも地上での生命ギリギリまで、神は祈る仕事をさせてくださるのだ。
それほどまで神に愛されている幸いをずっと味わっていきたいと思う。






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