詩編111編10節をいただいて
- 来主 珠里(July Cross)

- 2025年1月1日
- 読了時間: 4分
今日のデボーション箇所は、賢い建設者の話である。
教会の奉仕だけでなく、あらゆる世の場で、神を心の真ん中に置きつつ、よく人に仕える者は、確かに賢い者であると言えると思う。牧師をはじめ献身の道を選んだ人々、主を畏れているという意識がある人は実にそうであると思うし、尊敬する。
私も多くの奉仕についているが、実は私の中には奉仕している感覚がゼロである。主を畏れてはいるが、だからと言って、それによって奉仕しているわけでもない。
よく周りから「体調を崩すといけないから、奉仕を減らしたほうがいい」と心配されることも時々ある。けれども、私の中に奉仕している意識がないため、時間不足を感じることはあっても、心身が萎えてしまうようなことは全然ない。
私の奉仕の図式はこういうことである。
誰かに奉仕を頼まれる→ほんのわずかでも助けられそうな内容だったら受ける(できそうもない内容、または他に適任者がいそうだったら、この段階で断る)→実際に奉仕を1年間ほど試してみて、続けられそうだったら神が取り去るまで続ける→再び別の誰かから奉仕を頼まれる→前記の繰り返し...
こうやっていく内に奉仕の量が徐々に増えていくが、体力・気力は大丈夫でも時間不足になった場合、私の助けが一番必要な奉仕から優先する。優先順位最後になった奉仕は、基本的に私の目から見て「いてくれるだけで安心する」のレベルのものであることが多いため、時間が許したら共にいるが、私に時間不足が生じた場合のみ休みをいただく。けれど、長期に休むことは、病気などのよほどの物理的事情がない限りしない。
もう一つ、私にはやり方がある。
私は子供の頃から二刀流をやると集中力が高まるという性質を持っている。つまり、2つのことをいっぺんにやることによって、時間短縮を知らないうちに測っているのだ。
例えば、家事をやりながら次の主日礼拝のための賛美を覚えるとか、楽器の課題曲を練習しながら次に勉強すべき音大の授業課題をどうまとめようか構想を練ったりする。お風呂上がりに濡れた髪をドライヤーで乾かしながら映画鑑賞を15分くらいするのは日課だ。(これによって1ヶ月で観る映画はたくさん!)
奉仕も同様で、他者から見て〝多い〟と思われる奉仕量も、実は二刀流を頭の中でやりながら時間を読み、優先順番にこなしているだけだから、私には〝多く〟ないのだ。
(こういったやり方は、教会奉仕だけでなく、世の仕事等の現場でも作業の効率化に役に立っている。)
大切なのは、どこに基準を置くかだ。
「私が奉仕する」なのか、「神が奉仕する」なのかである。
「私が奉仕する」であると、奉仕疲れというものが短期間でドッとやってくる。それは自分が頑張ろうとしていることに他ならないからだ。
けれども、「神が奉仕する」と、動いているのは、私ではなく、私の内におられる聖霊が私の肉体を使って動いているだけなので、私自身は何のストレスも奉仕疲れも感じないのである。これは神に委ねているというよりは、私の自然の姿なのである。
だからといって、「何とかありのままの私で何とかいよう」とか「神にしっかり従おう」という義務感のような思いは全くない。
こういった奉仕のあり方が、筆者の言われるような賢い建設者であるのかどうかは私にはわからない。また、キリスト者として、これが清いあり方だと思っているわけでも全くない。
でも、幾つかはっきりしていることがある。
それは、無意識のうちに助けを求めている人たちを出来る範囲で助けようとしていること、それが無意識のうちに神の栄光のために行う生活につながっているということ、そしてすべてのことに対して無意識に行っていることだから、自分に無理がないということである。
今年もこうやって無意識の中で神に使われ、無意識の内に仕える者になり、無意識の上で賢い建設者を目指したいと思う。






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