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エフェソ信徒への手紙6章13節をいただいて

  • 執筆者の写真: 来主 珠里(July Cross)
    来主 珠里(July Cross)
  • 2025年1月2日
  • 読了時間: 2分

神の武具について、礼拝説教ではよく出てくる箇所である。

また、それらについての説教が語られる時、その説教は当然長いものとなる。つまり、それだけ私たちは、地上の生活において、神の武具をまとうことは重要で、神の武具をまとっていないと、悪魔の誘惑にすぐにさらされてしまうということであると思う。


面白いと思った今日のデボーションの内容箇所は、「背中に武具は無い」というところである。一般的な感覚として、武具をまとう時には、当たり前のように背中もその武具によって守られていると思っている、〝着ている〟のだから。

けれど、これは文字通り、背中に何もないことを意味しているのではなく、筆者も述べているように、「敵に向かって前身している」ために背後の守りがおろそかになっているという意味である。


私たちの目はいつも前を向いている。目そのものが前についているのだから、当然と言えば当然なのだが、人生においていうならば、後ろを振り向くということも私たちにはあるにはあるが、大抵の場合、それは過去を懐かしんだり、過去の出来事にこだわったりなどということで後ろを見る。少なくとも、「後ろにも霊的な敵がいるのではないか」と思って後ろを常に見るなどということは殆どないと思う。


筆者のこの内容箇所は、とても的を得ていると思う。私たちは、霊的な敵に常にさらされているが、敵はいつも前からやってくるとは限らないわけだ。だとすると、私たちは常に後ろにも気配を感じて、用心しなければならないということだ。


私は子供たちと接触することがとても多い職場にいるが、面白いことに、長年大勢の子供たちを世話していると、不思議なことができるようになる。

たった1人で20〜30人の子供を見なければならなくなった時、一度にこの大勢の子供たちを見ることはなかなか難しい。けれど、面倒を見ている年数が長くなればなるほど、私の後ろでいたずらや危ない事をしている子供たちの気配をすぐに感じることができるようになる。つまり、「後ろの目で見る」ということができるようになるのである。


こんな不思議な技とも言えない技が、霊的な悪の気配を感じるのに役に立つような気がしているが、こんな技を使わなくとも、筆者が語るように「イエス・キリストを身にまとう」ならば、敵の入る隙間もなくなって、平和のうちに敵に勝利できるのだ。それは、とても美しい勝ち方であると、つくづく思う。


今年も多くの皆様に美しい勝利が与えられますように。








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