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エペソ人への手紙4章16節
また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。 ******* 15節には個人の成長が語られ、16節には教会の成長が語られている。教会に連なるひとりひとりは、同じ神を信じているとは言え異なる。対立することもしばしばである。反目しあって、一方が教会を出て行ってしまうケースもある。私は長年牧師をしていて、対立する人も一緒にいなければならないと思っている。私は不完全な人間であっていくつも欠けがある。受け入れがたい、相対立する人によって自らの足らないところが負われていることに気づいたからである。パウロは、教会はキリストを頭(かしら)とする身体(からだ)であると言っている。身体は数えきれないほどのパーツによって成り立っている。目と足は全く異なるものである。目は、ほこりまみれの足にはあまり近寄りたくないと思うかもしれない。しかし、脳の指令によってこれらのパーツが見事に連係し、ダイナミックにきめ細やかに活動するように、教会において

Pastor
19 時間前


エペソ人への手紙4章15節
愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。 ******* 真理は神のみ言葉に秘められている。真理であるみ言葉は諸刃(もろは)の剣(つるぎ)と言われている。諸刃の剣は、どの方向からでも切れるので、扱いを間違うと大けがをしかねない。真理、あるいは真実の言葉もまた扱いを誤ると、他人を傷つけかねない。だから、真理は愛にあって語らねばならない。愛することがままならないならば、真理を語るのはひかえ、あえて語らない。 「あらゆる点において成長する」とは人としての成熟をあらわしているのではないか。語る言葉において、他人との交わりにおいて愛と配慮に富んだ成熟したキリスト者、キリストにならう者とならせていただきたい。

Pastor
3 日前


エペソ人への手紙4章11-13節
そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。 ******* ここに牧師、伝道者の務めについて述べられている。勧士も同様の務めに当たる。それは、み言葉によって聖徒たちを整えることである。「聖徒」とは、主イエス・キリストを信じるキリスト者すべてである。そのキリスト者、すなわち教会の信徒が整えられるとは、 (1)聖書にある正しい知識にしたがって救いの経験をする。 (2)神の子としてふさわしく生活するための知識と訓練を受け、健やかな信仰生活を送る。 (3)神より与えられた賜物を生かし、主に託せられた奉仕(仕事)に勤しむ。 (4)苦難に遭った時に、牧師に相談し共に祈り合う。祈りの中でみ言葉が与えられ、そのみ言葉に従うことによって、神のみわざを拝し、生きた神を体験する

Pastor
4 日前


エペソ人への手紙4章2-3節
できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。 ******* 教会という交わりの中で、私たちが一つになるためには、だれもが主の前に謙虚になることである。自分を主張し目立とうとせず、その交わりの中にいつも主が現われてくださることを切に求めることである。そのような人の心のうちに聖霊は満ちあふれ、おのずと、その人のうちに聖霊の実を結ばせてくださるのである。このみ言葉に書き連ねられた「柔和」、「寛容」、「愛」、「平和」はいずれも聖霊の実である。家庭にあって、教会にあって、互いに柔和であってとげとげしさがなく、どんなあやまちや失敗があっても寛容を示し、愛と思いやりがあり、仲睦まじく平和の絆で結ばれるものであり、平和で安心して身を置ける場所でありたい。

Pastor
5 日前


エペソ人への手紙4章2-3節
できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。 ******* この2-3節をこれから三日間ぐらいかけて黙想し、そこに主の御声を共に聴かせていただきたい。 主なる神は、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」(創世記2:18)と言われて、先に男が造られ、女が造られた。夫婦の起源がここに言われているが、夫が妻を支配するのではなく、また妻が夫を支配するのでもない。互いにふさわしい助け手として献身し仕え合う、それが夫婦である。 人は独りで生きられない、人との関わりの中で生きる。互いにふさわしい助け手となって仕え合うことによってどんな困難をも乗り越えることができ、あの人のために何らかふさわしい助け手となれたことがうれしい、そこに人としての幸いがある。そのように神は私たちをお造りになり、そのために、主は家庭を与えられ、また、教会を与えられた。 今、教会は危機に立たされている。少子高齢化が進み、これまで教会を支えていた人が高齢になって担え

Pastor
6 日前


エペソ人への手紙4章1節
さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、... ******* 私たちキリスト者は誰でも、主によって召されている。キリストを信じ、罪と死から贖われ救い出されたものは、主によって召されたのである。「召される」、すなわち「召命」とは、主に呼び出されてミッション(仕事)を託されることである。 私にとっての救いは、罪赦されて死から救われたということだけではなかった。私にとってもう一つの救いはこの「召される」ということにあった。つまり、私は何のために生きるのか、生きる目的を見いだすことができたということが、私にとってもう一つの大いなる救いだったのである。十代の頃に、何のために生きるのかわからない、それが耐えがたい苦悩だった。そこから救われたのである。私を愛し私を救ってくださった主なる神の栄光のために、与えられた命を燃焼することができる、これほどの幸いはなかったのである。

Pastor
7 日前


エペソ人への手紙3章18-19節
すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。 ******* 主イエス・キリストを信じて、神と共に歩む生涯に入れられた者が、一生かけてする仕事がある。それは神の愛を知ることである。日々聖書の言葉に親しみ、日常の生活の中に働かれる神を体験しながら、神がどんなに私を愛しておられるかを知るのである。 ここに愛の広さ、長さ、高さ、深さがあることが言われている。私たちはどれだけ神の愛の広さを知っているだろうか、どれだけ神の深さを知っているだろうか。神の愛は無限に広がっており、神の愛の深さは無尽蔵である。さらに、愛の長さは持続性である。途切れることがない、神は一時も私たちのことを忘れない。そして、天に迎え入れられて、神の永遠の愛の中に入れられるのである。神の愛の高さは、私は気高い愛ととらえている。高貴な愛である。それは、どんなに罪深く救いようのない人であっても決して見捨てない愛である。それが神の愛の気高さである。それ

Pastor
4月20日


エペソ人への手紙3章16節
どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、... ******* 私たちの国ほど、安全で経済的にも安定した住みよい国はない。しかし、何の不自由もなく、物質的にも満たされているのに、私たちの心、内なる人は弱り果て傷ついている。主は励まし、神のいのちを注ぎ、病めるところをいやし、弱きところを強めてくださる。 もし、神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵し得ようか。(ローマ8:31)

Pastor
4月18日


エペソ人への手紙2章19節
そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。 ******* 今日、戦争のために故郷に戻ることができず、難民と呼ばれ、寄留の生活を強いられている人たちがおられる。この地上にあって、住まいを失い、国を追われても、永遠に変わらぬ国、その国籍はだれにも奪われることはない。主イエス・キリストにあって、国や民族を超え、われわれは神の家族である。

Pastor
4月17日


エペソ人への手紙2章16節
十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。 ******* エペソの教会には、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンとの間に不和、隔たりがあったようである。それに対し、パウロは、両者の間にうごめく敵意をキリストの十字架は取り除き、両者を一つにされたのであると述べている。 同じクリスチャンであっても、考え方やものの見方が違って対立してしまう場合がある。しかし、私たちは、同じクリスチャンといえども、違った考えを持ち、違った見方をすることを再認識する必要がある。それほどに、神はひとりひとりに異なる個性を与え、創造されたのである。それを認めて、主によって自らがありのままに受け入れられたように、私たちも互いにそのままを受容するなら、それぞれに与えられた神の賜物が生かされ、互いに足らないところが補い合われて、躍動的なキリストの身体なる働きがなされてゆくのである。新たな人たちが救われ、宣教のわざが前進してゆくのである。

Pastor
4月16日


エペソ人への手紙2章10節
わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。 ******* 神に創造された私たちは、罪によって神の許(もと)を離れ、本来の人間性はほとんど損なわれてしまっている。しかし、主イエス・キリストによって贖われて、神の許に立ち返るなら、私たちは、再び神の御手によって新しく造られる。それが良い行いをするように造られたという「神の作品」である。私たちが神の御手の中にあるなら、陶器師にたとえられる神は、私たちを意のままに造り変え、変貌しつづけてゆくのである。

Pastor
4月15日


エペソ人への手紙2章8節
あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 ******* 私が神の御救いにあずかったのは、私たちを原因・理由とするものではない。出生が立派な血筋によるものだから、気立て・性格が良いから、善良な人になろうと努力したから、折り目正しい信仰生活を送っているから・・・などという理由に基づくものではない。ただ神の愛と恵みの他にない。私が救われるための要件はすべてキリストの十字架の上に果たされたのである。私はただこの十字架をあおぎ、「わがために主は十字架にかけられた」と信じただけである。

Pastor
4月14日


エペソ人への手紙1章23節
この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。 ******* 教会は、キリストを頭(かしら)とするキリストの身体(からだ)である。その身体は、一つの教会に召し集められた私たちひとりひとりによって成り立つ。これまで何度も礼拝において話してきたことを思い出してほしい。私が「イエスは私の主である、救い主であり、神である」と信じ、口でそう言い表わした時に、私の心に聖霊が宿ったのである。聖霊が宿ったということは、神の命が私のうちに宿ったのである。信仰を告白した人は正真正銘神の子とされたのである。なぜなら、神の子としての命がその人のうちに宿っているからである。命によってつながれた以上、何ものも切り離すことができない、神の子として身分をだれも奪うことはできない。そのように神に命によってつながれたものは、神によって一つの教会に召し出された(呼び集められた)兄弟姉妹と同じ神の命によってつなげられたのである。「イエスを主である」と告白した私たちが、イエスを主として従ってゆく時に、一つ

Pastor
4月13日


エペソ人への手紙1章19-22節
また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。 神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。 そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。 ******* マタイ28:18において、復活の主は「天においても地においても、いっさいの権威を授けられた」と仰せられた。21節に言われているように、主にすべての支配、権威、権力、権勢をこの世と来るべき世とにおいて与えられ、22節にあるように万物を主の足の下に従わせられたのである。今もなお、父なる神の右に座しておられる主イエス・キリストに目が開かれ、私はこの世にあって主イエスの御名によって祈る。この祈りによって、神の力強い活動によって働く力が、いかに絶大なものであるかを、私は知るようにな

Pastor
4月11日


エペソ人への手紙1章18節
あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、 ******* もうひとつ、私たちの心の目が開かれたいのは、神の国において私たちが受け継ぐ絶大な富である。私はいつもこの世の目に見えるものに目を奪われ、心とらわれ、神の国が見えない、見失っている。私のめざすべき最終ゴールはこの神の御国である。神の子がそこで受け継ぐべき、その輝かしい相続が見えていないので、ゴールを見失い、地に這いつくばるようにひたすら地上のものを求めているのである。 以前もお話したが、この地上にあって、神の御国の全貌を見ることができない。というのは、もしその全貌を見てしまうと、その素晴らしさに圧倒され、自分の命を自ら絶ってでも早く御国に行ってしまいたいという人が相次ぐからである。 私の故郷の山形に車で帰る時はよく裏磐梯を通って、吾妻スカイバレーという有料道路で山越えし山形県に入った。その途中、檜原湖という美しい湖がある。湖畔沿いの道路を走るのだが、湖畔の木立

Pastor
4月10日


エペソ人への手紙1章17-19節
どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。 ******* 「神に召される」とは、神に呼ばれ神の御救いに入れられることである。その救いにあずかるためには心の目が開かれなければならない。何よりも私の罪に気づかされなければならない。私は人間関係にあって傷つき、悩まされる。「あの人さえいなければいいのに」と思う。しかし、聖霊は、この対立を生み、この人間関係をこじらせているのは「あなたです」とストレートに宣告される。「本当にそうだ」と思えるから、私はそれを認めようとしない。また、「本当にそうだ」と思えるから、私は心から認める。両方の心が私のうちにある。 次のようなみ言葉がある。...

Pastor
4月9日


エペソ人への手紙15章13-14節
あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。 ******* 聖書は普通の書物とは異なる。それは今もこの聖書を読む時に、あるいは教会で牧師が聖書を解き明かし語る時に、私の心にささやき生きて語られるからである。この神が私に生きて語るということを実現に至らせるのが、三位一体の第三位格の神、聖霊である。聖霊とは何とへりくだった神であろう。どんな頑(かたく)なな心を持つ人があってもその人を見捨てることなく、そば近くにあってささやき続ける。石のようにかたく閉ざした人であっても、小さなすきまがあれば、水が中にしみ込むように、その人の内に入ってゆき、神の言葉を心に届けるのである。いつか霊の眼が開かれ、罪に気づかされ「イエスは主である」と告白するなら、その時から、聖霊なる神はその人の心に宿るのである。私の内に宿る聖霊、それが神の子

Pastor
4月8日


エペソ人への手紙1章4節
みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、 ******* ここには、神が私を選ばれたということが書かれてある。私がどのようにして初めて教会を訪れ、主イエス・キリストを信じるようになったのかをふり返りたい。友人に誘われ・・・クリスチャン家庭に生れたから・・・誰にも誘われず、自らの意志で教会の扉をたたき・・・いずれにしても、み言葉は、神が私を愛するという理由から、愛のうちに私を選ばれたと告げている。神の意志によって選ばれたということであれば、私の歩みの中で神が眉をひそめるようなことをしでかしてしまったとしても、決して変更されることがない。 さらにここには驚くべきことが書かれている。「天地の造られる前から」とある。「天地」とは、この地球のみならず全宇宙をさしている。その万物を創造された神が、ちりにも等しい私に心をとめ、愛を注ぎ、選んでくださったのである。そして、その選びは、天地万物を創造される以前から、私というものが造られることが定められ、選ばれていたというのである。気の遠くなるような話である。私

Pastor
4月7日


エペソ人への手紙2章10節
神の傑作(3) 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。 ******* ミケランジェロの彫刻やミレーの絵、左甚五郎の彫刻などは、実に傑作だと思います。人の傑作でさえ胸を打つものがあるのです。まして、イエス様を信じ救われた者が、...

舟喜ふみ師
2025年5月30日


エフェソ信徒への手紙6章13節をいただいて
〜エフェソ信徒への手紙6章13節のデボーションはこちらから〜 神の武具について、礼拝説教ではよく出てくる箇所である。 また、それらについての説教が語られる時、その説教は当然長いものとなる。つまり、それだけ私たちは、地上の生活において、神の武具をまとうことは重要で、神の武具を...

来主 珠里(July Cross)
2025年1月2日
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