エペソ人への手紙4章2-3節
- Pastor

- 6 日前
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できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。
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この2-3節をこれから三日間ぐらいかけて黙想し、そこに主の御声を共に聴かせていただきたい。
主なる神は、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」(創世記2:18)と言われて、先に男が造られ、女が造られた。夫婦の起源がここに言われているが、夫が妻を支配するのではなく、また妻が夫を支配するのでもない。互いにふさわしい助け手として献身し仕え合う、それが夫婦である。
人は独りで生きられない、人との関わりの中で生きる。互いにふさわしい助け手となって仕え合うことによってどんな困難をも乗り越えることができ、あの人のために何らかふさわしい助け手となれたことがうれしい、そこに人としての幸いがある。そのように神は私たちをお造りになり、そのために、主は家庭を与えられ、また、教会を与えられた。
今、教会は危機に立たされている。少子高齢化が進み、これまで教会を支えていた人が高齢になって担えなくなり、財政的にも困難になって、教会の閉鎖に追い込まれている。なにしろ、次世代がいない、次の担い手がいないのである。こうした問題に、私たちの教団は今年度から、大きな改革に着手している。
たとい教会の閉鎖に追い込まれようとも、そこからいかようにでも立ち直る、教会を再生することができると、私は考えている。なぜなら、教会の原型は次のみ言葉にあるからだ。
また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。(マタイ18:19-20)
たった二人、三人が、イエス様の名のもとに集まるなら、建物はなくても、お金がなくても、そこに教会がある。二人、三人の交わりの真ん中にイエス様がおられるなら、それは教会である。さらに、たったの二人であっても、イエス様の御名によって心を合わせて祈るなら、どんな祈りにも主は答えてくださる。閉鎖せざるを得ないような教会であっても、そこからいかようにでも立ち直ることができるのである。
今朝のみ言葉に戻りますが、教会が教会として立ってゆくために求められるのが、「平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致」することである。教会はひとりひとりがバラバラではなく、二人でも三人でもいい、声をかけ合う、そして互いのために祈り合う、み言葉をとおして与えられた恵みを分かち合うなら、そこに主がおられ、そこにキリストのうるわしい身体が形造られてゆくのである。






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