イザヤ書6章8節をいただいて
- 来主 珠里(July Cross)

- 2023年7月2日
- 読了時間: 4分
今日のデボーション箇所はとても短い。でも、キリスト者にとって一番大切なことがしっかりと書かれている。
神が罪を赦してくださった。それによって、自由という素晴らしい恵みを与えられたーー
これに対する神への応答は、赦されたことを語り、与えられた恵みを人に分けるのである。
筆者は、これ以外の応答はありえないときっぱり言っている。
私は、最近、ここのブログのスペースに、Angel’s Healing Musicと名付けた動画サイトから演奏曲を転載している。
ヒーリングミュージック、つまり癒しの音楽は私が長いこと活動したいと思っていたことである。厳密に言うと、杖をつく歳になってもできる活動をしたいということが考えにあった。もちろん、今の私の歳は杖をつくなどまだまだずっと先の話なのだが、神が与えてくださった私の人生の中には、音楽が主軸にあり、たいして才能などない私に神が期待してくださった恵みの足跡がそこにある。
だが、どれだけ多くの音楽の恵みを持っていても、年老いてしまえば、声も全く出なくなり、指も早く動かなくなるであろう。そういった中で、年老いた私がどこまでのことができるだろうかとある日考えた。
もう一方で、神が与えて下さった恵みを私だけのものにせずに、一人でも多くの人に与えて差し上げたいと考えた。
教会では、賛美独唱や聖歌隊など兄弟姉妹と分かち合える音楽の機会はたくさん与えられている。これはとても素晴らしいことだ。神も心から喜んでおられるに違いないと思う。
しかし、残念ながらこれは究極の賛美ではない。
「神に献げている」「神を讃えている」「大きな声で歌えて嬉しかった」「ハーモニーを共にできて気持ちがよかった」と微塵でも思う時、人は自分を喜ばすことに酔ってしまっている。こういった喜びは、神が私たち人間に与えて下さった恵みの一つであるので、大いに素直に喜んでいいわけだが、究極の賛美という意味では、これらは全く当てはまらない。
では、究極の賛美は何かというと、その条件として神と一対一での賛美ということである。
たった独りで礼拝堂に佇んでいるとする。そこは神と自分がたった二人だけでいる聖域と化すであろう。もしそこで神に向かって賛美をするのならば、それは本当の賛美になるであろう。自分以外の人の存在がない場所には、意識は神にだけ集中するため、真の神と真の自分が現れるはずだからだ。
長年、心に思ってきた賛美を私はヒーリングミュージックで始めた。場所が礼拝堂でないのが残念だが、神が私に与えた聖域は狭い自分の祈りの部屋である。
そしてそこで祈りながら、3分間以内の短い短い曲を作る。
私はギターを弾くのだが、幸いなことにギターは医学的にも人間の免疫力を高める音が出せるという実験結果がある。いわゆる音楽療法である。
最初のうち、他者が作った明るい曲を編集しているだけに留めていたが、それは私の思っている癒しの音楽ではなかった。なぜなら、体が健康な人にとっては、そういった元気な曲は癒しになるのだが、病いの方達には耳につく、ついていけない音楽になってしまう。私は明日死ぬかもしれないような病いに伏した方達に寄り添うことを望んでおり、そういった方達に私が神から与えられた恵みを、み言葉と共にお譲りしたいのである。主イエスがそのような御方だったからだ。
最近は、肉体の病いだけでなく、心の病いにかかっている方たちが大変多い。ヒーリングミュージックという音楽ジャンルが水面下で流行しているのもそういったことから派生したのかもしれない。
病いの方達には、浮き沈みの激しい音の羅列よりも、平坦で退屈なほどのゆったりとした音楽がいい。眠りを誘い、その深い眠りによって、肉体の免疫力が上がり、心も落ち着いた健やかさを取り戻す。
私は、ギターでそういった音楽を作り、奏でて、発信している。
面白いことに、ギターを速いテンポで弾く事がとても大変だと思っていたのだが、どうしようもなくゆっくりと弾く方が速いテンポよりはるかに難しいことを知った。神は私の細かなギター技術をも進歩させようとなさっておられる。
自分に酔わず、自己満足に留まらず、神より与えられたものを多く用いて、一人でも多くの方達が癒されるように、良い眠りを差し上げたいと思う。






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