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エゼキエル書36章29節をいただいて

  • 執筆者の写真: 来主 珠里(July Cross)
    来主 珠里(July Cross)
  • 2023年12月29日
  • 読了時間: 4分

年末も押し迫って、今年も今日・明日・明後日と三日となった。世の中は仕事からの解放の癒やしの日とする方たちもいらしたり、元旦の準備でせわしなくしている方もいらっしゃるだろう。すべての方たちが平安の内に新年を迎えることができるよ祈っている本日である。

キリスト者は12月24、25日が過ぎると、若干の放心状態(?)となる方も多いのだが、今日の私は久しぶりに神との語らいの時間を得ている。


今日のデボーション箇所は、「救いによるきよめ」がテーマとなっている。

私たちキリスト者は〝罪赦された罪びと〟である。よって、知らぬ内にどのキリスト者も聖人君子でないゆえに罪を犯し続けているが、聖餐式を含めて礼拝があることで、悔い改める機会が常に与えられているため、〝罪赦されて〟いるのである。


どこの教会でもそうなのだが、教会は個性の違う多くの人々が集まる場所である。世の中にある集まりとの違いは、真ん中に神がおられるか否かであり、人間中心の集まりなのか、神中心の集まりなのかという違いがある。

ところが、神中心の集まりである教会でも人間関係において多くのトラブルが発生することがしばしばある。こういったことから、信仰そのものから離れてしまう信徒が出ることもある。

牧師はそうならないように、常に心を配っておられるわけだが、時には自分の意を通すために自己主張の強い信徒などは牧師に八つ当たりや激しい口調で語ることすらするために、少しでも牧師がそういった目に遭わないように、また遭ってしまってもそれに耐えうるように私は日々祈っている。


そこで、たとえば、こういった教会内での人間関係があった場合、私がよく考えていたのは、「本当にこれらの兄弟姉妹は救われているのか?」ということであった。

もう何年も前に、私の信仰の友が当時の牧師に尋ねたことがある、「先生、クリスチャンはみんな救われているんですよね?」と。先生は「もちろんです」とお答えになった。

おそらく、友は、「この人は救われているのだろうか?」と思うほど、信仰者とは思えない言動の兄弟姉妹にぶち当たったのだろうと思う。

友は、先生の「もちろんです」の返答に、「そうですよね、そうですよね」というように何とか自分を納得させようと首を縦に振っていた。

もう何年も前のことなのに、この時の友の質問を私はよく思い出す。


今年の冬は暖冬だったため、職場の枯葉掃除に追われる冬であった。

大きな庭をひとりでコツコツと枯葉を集める作業は、見た目以上に結構な重労働なため、大抵の男性達が次々と辞めていって、女性の私がひとりで担うこととなった。職場の女性陣は口をそろえて「申し訳ない、ひとりでやらせて…」と謝罪と感謝を言ってくださった。

けれど、神が私と共におられて、皆が根を上げる仕事を私は疲労し、風邪をひきながらも、枯葉を掃きながら〝神と語らう時間〟として使ったため、実に恵み多き時間であった。


ある日、16時頃であったと思うが、空が淀んだ雨模様の暗い雲がある日、不思議なことが起こった。

あたりは陽も全然ささず、暗く、寒い冬枯れの大庭を掃くもくもくとした作業をしながら、「救われているというのに、救われていない言動をする兄弟姉妹がいるのはどうしてだろう。もし、彼らが救われていないのだったら、私は祈るほかにどうしてあげるべきだろうか。」と考えながら枯葉を掃いていた。

すると、お腹の内がふんわりと温かくなって(聖霊が知らせてくるときはいつもそうなる)聖霊が知らせてくださった、「キリスト者はキリストを受け入れた段階で救われている。けれど、その救いを〝信じている者〟と〝信じ、体験(実感)している者〟とでは言動が違う」と。

その瞬間、空の一部が割れて雲間から大庭にいる私の上だけがパァッと薄い明るいピンク色に染まった。まるで聖霊が空と私を一体化しているようだった。しばらくすると、お腹のふんわりした温かさが消えて、また真っ暗になった。

とてもとても不思議で、神が本当に共におられると真に知った体験だった。


私は受洗前、夜中であったが、救われたことで号泣した。救われた実感がどういうものかを心底よく知っている。救われるということは、感謝の涙が枯れ果てるまで出るものだ。それは、自分の罪の重さを知っていればいるほど、その実感度は高いのだと思う。ゆえに、神の子とされて名誉なことだとか、特別な存在になったように思ったとかe.t.c.....そういった類の感情では全くない。

また、「確実に救われた」というこの体験が、ある意味、私を孤高的にしている。なぜなら、キリスト者には「救われている」と信じてはいるものの、実感まで至っていない兄弟姉妹が非常に多いからだ。実感や体験がないと、人間の弱さが全面に出て、すぐに肉の思い(特に嫉妬や悔しさなどから発生する心)へと傾いてしまう。そこから人間不和が発生しやすい。自分の思う方向に進まないと、周囲を巻き込んで吹聴したり、自分の意にそぐわない者への排除行動や攻撃の高い言葉などが出るようになる。

私は常にこういった兄弟姉妹のために祈り続けている、真に救いの実感を得られるように…と。

そして、そういった私たちをも神は誰一人見捨てず、きよくしてくださるという神の憐れみに心底、首(こうべ)を垂れる本日である。






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