エフェソ信徒への手紙5章8-9節をいただいて
- 来主 珠里(July Cross)

- 2023年6月6日
- 読了時間: 2分
今日のデボーション箇所は実に端的で真実をついていると思わされる。
私たちが想像する「光の子」とは、何の問題もなく、真白な心で、ひたすら神に向かって歩んでいる美しい姿を思ってしまう。けれど、筆者のメッセージが語るように、「光の子」とは、あらゆることにぶつかったりしても、神の正しさだけを求めて、また、神が自分を用いられていることに勇気を与えられて信仰を貫いて行く...そういう姿なのだと思わされる。
私は、ささいなことでも事あるごとに、祈り、聖書を開き、みことばをいただくことばかりやっている。私は自分の正しさというものに誰よりも自信がないので、神に訊くしか方法を持っていない。いつも心の中で「神様、これで良いでしょうか」「神様、どうしたらいいでしょうか」と問うている。その問いの答えは、つまるところ、自分の感情や自分に都合の良い思い、または近日に出会った人々が言われたことからの影響で結論が出てくる。その答えが正しいこともあるが、そうでないことも多い。100%の正しい答えを出そうとすると、人は、ほとんどの場合、間違った方向へ行ってしまうのではないだろうか。
私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。
第二コリント5:10
「キリストのさばきの座」とは、キリスト者にとって良い報いの状態である。
肉体がある限り、キリスト者であっても、様々な思いが湧いたり、罪な言動してしまうことも多いわけだが、それでも神は救うことを正しいこととされて、私たちの悪なところだけに視線を注がず、憐まれ、救いを取り去ることは絶対にないのだ。
いつも神が一番の味方であると真っ直ぐに信じて、光の子として歩める者でなれますように。






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