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エペソ人への手紙2章2節をいただいて

  • 執筆者の写真: 来主 珠里(July Cross)
    来主 珠里(July Cross)
  • 2023年8月13日
  • 読了時間: 5分

今日のデボーション箇所は、本日の礼拝説教から導きをいただいた。

このお説教の最後は、キリストの愛とその恵みへと辿り着くのであるが、私はこの2節に思いが留まった。

日曜日になると色々な教会で、色々な牧師がお説教をされ、近年はコロナの影響で様々な教会配信説教が見られるのだが、そういったものを拝聴させていただいていると、サタンの話が練りこまれるお説教は1割にも満たないと私は個人的に感じている。どういう理由でそうなのか、ハッキリとデータが存在するわけではないが、教会で〝悪魔〟というと〝エクソシスト〟のようなものを連想し、血生臭い宗教のイメージになりがちだから、信徒に恐怖感を与え、脅迫的に信仰へ引きずり込んでしまうようになってはいけないと思うからなのか、サタンのことを避ける牧師が多い気がする。

ゆえに、「反対勢力の存在」を示してくださる我が教会の牧師に感謝している。


教会はきよい場所ではあるが、その中にいる人々は、「赦された罪びと」だ。赦された罪びとは、赦された後も罪を全く犯さない人ではなく、「赦された後、罪を犯してしまうこともあるが、〝将来は〟確実にきよくなる人」だと神から将来を見込まれて救われた人々の集まりだ。つまり、現在は、まだ完全にきよくない状態だ。

だから、互いにきよくないゆえに、教会内で教会員同士のトラブルがあったりもするのは当然といえば当然のことであり、逆にいうと、不和は、きよさに向かって罪という病気が膿みを出している状態、つまり、きよさに向かって治癒しようとしている状態であるのだから、ある意味、これは健全な教会と信徒である証拠だ。

しかし、健全な教会と信徒の状態だといっても、やはりそこにトラブルがないに越したことはない。


以前に時々、思ったものだ、「なぜ教会で人間関係の不和が生じるのか?」

答えはすぐに出た。

私たちは、罪びとゆえに罪から不和を生じさせたりしてしまうが、もうひとつは、今日のお説教&デボーション箇所で語られたように、サタンの力が人の罪を引き出す。神の領域にいるキリスト者にも当然サタンの手は及ぶ。キリスト者にはすでに聖霊が内に住まわれているので悪霊は私たちの中には入れないが、外からは攻めてくる。キリスト者は外堀から攻めてくる敵と対抗しなければならない。


けれど、サタンの名前は知っていても、その存在に〝ぼやかし〟が入ってしまっているキリスト者がいかに多いことか。人は「サタンは荒野の誘惑などで書かれているけれど、あの存在はフィクションだよね」と恐怖感からか(?)そうなりがちになるように思う。

神は存在するけれど、悪魔は存在しない――と、自分にとって都合の良い霊的世界を造り出してしまう。このように、くさい物に蓋をしてしまうと、悪霊にあっという間にさらわれやすくなる。

もちろん、サタンのことばかりに目を向けすぎて、神秘主義やオカルトにはまって、いわゆるミイラ取りがミイラになってしまっては本末転倒だが、その存在を認めないことは、病気の存在を知らない患者のようになってしまう。病気の存在を知っていれば対処し、免疫力も上げて治せるが、それを知らないままでいれば、放置によって死ぬのと同じことだ。

戦うには、ある程度、敵の存在を知る必要がある。


教会の中で不和が起きる時、それはサタンにとって最大のチャンスだ。

もし、誰かが自分に嫌な思いをさせてきた時、相手に怒ってしまうのは私たちの自然な感情であるが、その時、通常、人は大抵、相手自身を責め立ててしまうだろう。

しかし、サタンという敵対勢力の存在に蓋をしていなければ、つまりその存在を認知していれば、相手が自分に嫌な思いをさせたのではなく、その相手の後ろにいるサタンの手下の悪霊がしてきたとすぐに分かるようになる。(ボスであるサタン自身が直接、一般人の私たちにつくことはない。サタンは神のように遍在ではなく、局在だからだ。ゆえに仕事は部下にやらせるタイプ。上司であるサタン自身はもっと世の中に影響力が強い者につくことが多いようだ。)

つまり、相手自身が直接手を下したのではなく、悪霊が相手を誘惑し、操っていると分かる。

もうひとつ分かるのは、悪霊に隙をつかれる罪が相手にも自分同様にあるということだ。自分の隙を知っていれば、その隙がどのようなものであれ、悪霊が喜ぶ相手の隙も見えてくる。つまり、相手も自分も、お互いに悪霊の餌食になる要素があると知ることができる。

それらを知った後で、相手を責めることが出来る人は、そう多くはいないだろう。

だから、他者とぶつかりそうになったら、相手の後ろに何が存在するのかを知っていれば、不和はそう簡単には生じない。敵は相手自身ではないからだ。


そして、キリスト者にとって、サタンやその手下たちの悪霊を恐れる必要は全くないと私は思っている。

なぜなら、サタンは神の許可なしでは神の息のかかった者に手出しは簡単にできないのだ。

ヨブ記に登場する悪魔が確かな一例だ。

反対勢力はいつも神の顔色を伺って動いている。人間に近寄る時は、ジワジワと這うようにやってくる。私たちの持っている罪の小さな切り傷を探り狙いながら。

けれど、それすらも彼らは神のOKサインなしには何もできないのだ。


イエス様は「目を覚ましているように」と仰せになられた。目を覚ましてしっかり主を見つめていけるように、反対勢力の誘惑に強くなれるよう祈る夜である。





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