エペソ人への手紙6章12節をいただいて
- 来主 珠里(July Cross)

- 2024年7月9日
- 読了時間: 3分
~エペソ人への手紙6章12節のデボーションはこちらから~
〝霊的戦い〟というと、いかにも…と思ってしまうが、神が目に見えない存在である以上、サタンも目に見えない存在であり、目に見えない存在から発生する戦いということは、当然、目に見えない〝霊の戦い〟ということだ。
しかも、本日のデボーションの筆者は「霊的戦いに休みはない」と言う。
そして、その戦いは「救いを勝ち取るためではなく、すでに救われているから」と言われる。確かにその通りだと深く納得した。
私たちは、一瞬一瞬を戦って生きている。
家族や友人が苦しみの中にいる時は、苦しみから解放されるようにと共に戦う。
病の床にある時は、病魔と対峙し、自分の弱さと戦う。
職場でも相手がどう出るのかと人間関係の中で心の戦いをする。
順調に人生が運んでいる時でさえ、いつか不幸せになるのではないかと将来への不安と戦っている。
これらは霊的な戦いというよりは現実との戦いではあるが、現実に対して不安を抱かせるのはサタンの仕事であることを忘れてならないと思わないではおれない。
また、信仰暦の長いキリスト者であればあるほど、「なぜキリストと共にいる人生を選んだのか」とか「一生、主にお従いしていけるのか」「なぜ今、自分が教会にあってこの立場に置かれているのか」など不安が過ぎることがあるかもしれない。
主イエスは「小羊を狼の中へ送るようなもの」と戦いの環境を語られたが、キリスト者はいつもいつも戦いの中に置かれている。
残念ながら(?)、敵の存在に気づかないキリスト者もいるが、気づいていようといまいと、私たちキリスト者は、主イエスを信じた瞬間から誰一人漏れることなく、戦いの場にその身を置かれる。
それは、戦いがあっても「この者なら貫ける」「この者だからこそ出来るはず」という神の信頼ある選びが働いているのだ。
それゆえに、他者という人間の評価など横に置き、自分の持てる範囲で、背伸びすることなく、信頼してくださる神に誠意をもってお応えしていくのが、私たちキリスト者の仕事である。
そういった仕事の中で、「おまえは、その与えられた物事に生きるのか、死ぬのか」と問いかけてくる時が戦いであるが、キリスト者は聖書を開けば、どちらを選べば神に喜ばれるかが書かれているから、そのとおりを選べば良いのである。
デボーションの筆者は「生活のどの瞬間にも戦いが続いていることに気づく」ようにと書いておられるが、それを知った上で、更に、共に神が戦ってくださっていることにも気づかなければならないとつくづく思うのである。
真に、真に、感謝なことである。






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