ガラテヤ人への手紙3章13節をいただいて
- 来主 珠里(July Cross)

- 2023年2月9日
- 読了時間: 2分
季節の変わり目が近づいているからでしょうか、肉体の疲れを僅かですが覚え、その流れでつい苛立つことがここ数日ありました。
ボラワーク先での同僚の言動が目に付いたり、作業に反抗的な思いがわりたり…どうしてこんな思いが私の中にあるのかと思うほどに罪な思いがふつふつと出てきます。
そのような時は、やはり闇のエネルギーとでもいうのでしょうか…そんな負のエネルギーが発されているようで、周囲にも良い影響を与えることができない気がします。
そんな自分を「これではいけない、私は光の子なのだから」と思うのです。キリスト者であることを意識すると、いくらか理性が働いて、良くない思いが身を潜めます。でも、それは潜めているだけで、きっかけさえあれば再びふつふつと出てきます。
私は毎夜、聖餐の葡萄酒とパンをいただきます。その際、まず次回の礼拝賛美を全曲歌い、その日の悔い改めと感謝の祈りをし、早朝にささげてある葡萄酒とパンを食します。これは教会で定められていることではありませんが、ちっとも聖くない自分を受け入れてくださった神様への謝罪の思いで続けています。
この時歌う賛美は、その日その日の様々な思いの中で歌います。負のエネルギー状態であっても歌うわけですが、どんなに健やかでなくても歌うと、残念な一日であった自分があっという間に光の中へと戻される気持ちになります。そして「明日こそは残念な自分を創らないようにしよう」と希望がわきます。
真に私は救いによる自由を得ていると感じます。永遠のいのちの入口が見えるように感じます。もし私がキリスト者でなければ、自分が罪な思いに蝕まれているのすらも分からない、いえ、それが当たり前のように思うでしょう。でも、救われているからこそ罪に敏感になれるのです。そして、罪に敏感だからこそ、キリスト者の自由を得る喜びを知ることができるのだと思います。
本当の喜びは、必ず神様と共にあるのです。






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