ガラテヤ人への手紙3章2-4節
- Pastor

- 2024年10月23日
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わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。まさか、むだではあるまい。
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救いはキリストの十字架によって完成された。キリストは十字架の上で「すべては終わった」(ヨハネ19:30)と言って息をひきとられたが、原語によれば、「終わった」とは完了したという意味である。つまり、救いは神の側に完成されたということである。私たちは、何も持たない手をただ差し出し、その救いを受け取ればよい。それが、信仰によって義とされる(救われる)ということであり、値なしに恵みによって救われるということである(ローマ3:23,24)。
さらに、その信仰も上より与えられたものである。罪に気づかされたのも、神を、キリストを信じられたのも、聖霊(御霊)のなせるみわざである。その聖霊の導きに幼な児のようにへりくだり、従って救われた人の心には聖霊が宿っている。それが神の子としての命であり、天の御国に入れられるための保証、パスポートである。
生れたばかりの乳幼児は命にあふれているように、クリスチャンになったばかりの頃は、神の命にあふれている。感謝と喜びがあり、教会に通うこと、聖書を読み祈ることが嬉しく楽しいと思える。そして、世の中の快楽が色あせて見える。ところが、長年の信仰生活を送っていると、教会に毎週行けなくなり、次第に教会から遠のき、聖書も読まなくなり、祈ることも食前に形式的に祈っているようになってゆく。聖霊とかかわりは薄れてゆき、世の中のことが魅力的に見え、教会のことが色あせて見えてくる。
そうした中で、ふと、自分は本当に救われているのだろうかと思い、確信がもてなくなる。すると、「御霊で始めたことを肉によって仕上げようとするのである。それが「律法主義」と言われるものである。教会に月に一度は行っている、献金をしている、他人に親切にしている、だから、私は救われている。そのように、行ないによって救いの確証を得ようとするのである。律法主義は人をさばき、しまいには神をもさばく。あの「ぶどう園の労働者」のたとえのように、「なぜ、私は夜明けと同時にここに来て汗水流して働いたのに、日没前に雇われた人と同じ労賃なのですか」と、他の労働者をさばき、主人に訴えるのである。
人の救いは働きによらない。ただ神のあわれみと恵みによって救われたのである。ここにとどまり生きるなら、自分は生かされ、周りの人たちを生かすクリスチャンとなってゆく。






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