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コリント人への第一の手紙14章1節をいただいて

  • 執筆者の写真: 来主 珠里(July Cross)
    来主 珠里(July Cross)
  • 2023年1月7日
  • 読了時間: 4分

本日のデボーション箇所の祈りはとても素敵です。

隣人のために愛をもって祈るのはクリスチャンの素晴らしい特権であると思います。

私はよく思います、敵のために祈れるのはクリスチャンにしかできない神の御業なのではないかと。


自分の過去を振り返ります。

小学生の頃、何が原因かは未だに不明ですが、丸々一年間、クラスメイトに無視され続けたことがありました。もし私に原因があったにせよ、丸々一年間というのは子供の私にとっては実に長い月日でした。でも、その時のことを振り返ると、つらかったり恨んだりする思いより、無視し続けるクラスメイトのために祈れなかった残念な私がいたことだけが心に残っています。


また、大人になり、ある職場で一年間ほどアルバイトをしました。たった一回だけ小さなミスをしました。注意を受けたので謝って、仕事を続けました。けれど、それをきっかけに上司は、事あるごとにデスクの向こう側から私を睨んだり、嫌味を言い続けました。最終的に、上司は、私から「辞めたい」という言葉を引き出すためにイジメをしていたことが、他の方たちからの情報で分かりました。でも、これは私のおかしなところでもあるのですが、その時、上司を恨む気持ちがわきませんでした。上司が様々なストレスで苦しんでいる状態だったのを外見から分かったからです。けれど残念なことに、やはり恨むことはなかったものの、この時も、上司のために祈れない私がいました。


それからかなり経って、数年前にもボランティアワーク先で、ある女性から無視され続けました。朝の挨拶をしても、帰りの挨拶をしても、あからさまに横を向いたきり返事をいただけませんでした。その時は半年ほどそういった態度をされただけでしたが、理由は明らかでした。彼女のやって欲しかった作業を、仲介者の連絡ミスで私に連絡が来ていなかったために私が作業を手伝うことができなかったからで、彼女は私が彼女と作業をしたくないのだと誤解をしたからでした。あらゆることに彼女は私に敵対心が丸出しでした。

けれど、この時、私はきちんと神様を見つめていました。そして、彼女のために祈りました。「誤解」というのは、人の罪から来るものだと知っていました。彼女が罪を犯さないように祈りました。

半年もしない内に、彼女は自分が私に対して誤解していたことに気づきました。「あれは仲介者の連絡ミスだった」と誰かが言ってくれたのです。

その後、彼女と私は良いパートナーになりました。


教会においては、私は今のところ そういったことはありませんし、あったとしても、基本的に嫌いな人というものがいない私は人を恨むことはないと思います。

相手が「嫌っているのではないか」と思ったとしても、それは全くの誤解で、私は人を嫌うことがありません。ある意味、それは神様が私にくださった小さな賜物かもしれません。


けれど、教会においても、教会以外の場所においても、一般的には人間の集まるところという括りで考えると、〝敵〟または〝敵らしき者〟が生まれることが多いと思います。

「敵のために祈れ」と諭されても、周囲の人々を見ていると、そう簡単にはいかないことも多いように思います。


先日、ある牧師先生の手記をいただきました。先生の周囲で人間関係の不和があったのかもしれず、内容は「動じない信仰」についてでした。

西条八十の作詞で知られる童謡「唄を忘れた金糸雀」を例にとったお話でした。

「唄を忘れた金糸雀を捨てましょか」と言うと「いえいえそれはなりませぬ」と。「背戸の小藪に埋めましょか」と言うと「いえいえそれはなりませぬ」と。「それなら柳の鞭で打ちましょか」と言うと「いえいえそれはかわいそう」と。

最終詞では「唄を忘れた金糸雀は 象牙の船に 銀の櫂 月夜の海に浮べれば 忘れた唄を思い出す」というわけです。

そこで先生はこう思われたそうです、「愛を忘れたクリスチャン 信仰揺らいでくるばかり 肉の欲で満たされて 人に対して思いやり 欠いた表情に言葉遣い 切れ味よい発言 白黒つける明確さ それは良くとも 自分の価値優先 相手を非難 信仰の揺れ気づかずに」。

それで、先生のお話はこう続きます。

価値判断は人によって異なるが、向き合う相手に敬意をなくして会話の始点を持つことはできず、その先には破壊・分断・争いがある、と。

敬意なしに弱い者や差別されている者などの人々には寄り添えない、と。

そして、敵への愛をも忘れた信仰者の存在は、主イエスが私たちの罪のために〝敬意をもって〟犠牲を払ってくださったことを知らせることなのかもしれない、と。


唄を忘れた金糸雀が唄を思い出すには、「象牙の船」と「銀の櫂」と「月夜の海」が必要だったように、クリスチャンは、人に対しての「敬意の船」と「忍耐の櫂」と「寛容の海」によって、はじめてクリスチャンとして生きられるのだと思い、そうなれるように神様に祈ると同時に、神様のくださったたくさんの愛の表現方法に真に感謝しました。




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