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コリント人への第二の手紙1章4節

  • 執筆者の写真: Gates to Devotion
    Gates to Devotion
  • 2024年7月11日
  • 読了時間: 3分

更新日:2024年7月12日

神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにしてくださるのである。


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慰めとは何でしょうか。それは苦痛を和らげる慰安、つまり激痛を鎮めるひとときの鎮痛剤の類のものでしょうか。しばしば宗教的慰安はそのようなものであると考えられてきました。根本的解決には何ら役立たないけれども、とにかく、鎮痛剤で時を稼ぐというわけです。人々が宗教に期待するのは、せいぜいこの程度ではないでしょうか。この逃避的慰安が度重なるとまさしく麻薬的となり、「宗教は阿片(アヘン)」という定義が正鵠を射ます。


聖書の「慰め」の原語は「パラカレオー」と言います。パラ=「かたわら」と、カレオー=「呼ぶ」の合成語です。辞書を紐解くと、

①側へ呼ぶ・招く

②願う・助けを求める

③呼びかける・勧める・促す

④慰める・励ます

となっています。

パウロ書簡などにおいて、しばしば「あなた方に勧める」と呼びかけられますが、これが同じ言葉です。慰めるとはまさしく、招き、慰め、促す行為なのです。「生きる望みをさえ失って(1:8)」しまった人を望みへと呼び出すことこそ慰めです。患難こそ人を神の傍へ呼び出すのです。私たちはこの呼び出しによって救われるのです。


キリストの福音は、存在の意味への呼び出しです。この福音は貧困や飢えによって、また失業や差別によって、人間的にも社会的にも失われたものを存在の意味へと呼び出すのです。罪によって、また高慢や怠慢、様々な失敗や挫折によって、失われた者を神の傍へ呼び出すのです。「それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりに甘んじよう。なぜなら、わたしは弱い時にこそ、わたしは強いからである(12:9-10)」とパウロが告白した時、彼は神の傍らで慰められていたのです。


ある医師が感動的出来事を記しています。

一人の有能で、献身的な看護婦が病院で働いていましたが、彼女は再起不能の病気になってしまいました。看護婦という仕事を生きがいとしていた彼女は再起不能の病気のせいばかりでなく、もはや生きがいとしていた仕事に復帰できないということにすっかり絶望していました。今や、彼女は看護する身ではなく、看護される身となりました。その彼女の病床に、キリスト者の友人が訪れ、絶望した彼女に語りかけたのです。

「あなたは、今こそ絶望してはなりません。それはあなたが、数限りなく看護してきた病人たちに真の看護を今こそするためです」

「どうしてです。私はもはや再起できなくなってしまったのですよ」

「いいえ、そうではありません。もし今あなたが、看護の仕事ができなくなったといって絶望してしまったらどうなりますか。あなたは、再起不能の病人を看護してきたのでしょう?今あなたが再起不能のゆえに絶望してしまうことは、その病人たちの存在理由を否定することです。そして、あなたの成した看護の意味を失うことです。あなたは希望へと看護したのではなく、絶望へと看護したことになるのです。再起不能の中であなたが生きる意味を見出せば、あなたのやってきた仕事が完成するのです」

彼女はこの言葉によって立ち直りました。


「慰め」とは何かを実によく物語っています。生きる意味へと呼び出されることこそ慰めです。神は私たちを望みへと促してくださいます。こうして患難や苦痛、悲しみやつらさこそが、神と人間を結ぶ絆となり、人間と人間を真実に結ぶ絆となるのです。なぜなら、この絆は「キリストの苦難」に結びつけられているからです。




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