コリント信徒への第一の手紙2章14節をいただいて
- 来主 珠里(July Cross)

- 2024年1月1日
- 読了時間: 3分
更新日:2024年1月2日
新年あけましておめでとうございます。
今年も皆様が神様と共に歩むことができますよう心から祈りつつ、神様の恵みを少しでも皆様と分かち合うことができたらと思っております。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
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さて、本日、今年はじめてのデボーションは、第一コリントからである。
テーマは「自然のものと霊的なもの」となっている。
先日、ある牧師の説教を聞いた。丁度、同じように、第一コリントからであった。
その牧師が言われるのには、「人間には4種類の人がいる」と言うのである。
まず1種類目は、神という見えない存在を全く知らないか、受け入れてない人々である。
2種類目は、真の神を受け入れて、キリスト者になったばかりのまだ右も左も分からない人々である。
3種類目は、真の神を受け入れて、キリスト者になったものの、信仰の成長がなされていない人々である。
4種類目は、キリスト者となり、順調に成長を重ねて、成熟したキリスト者となっている人々である。
本日のデボーション箇所で言われている「自然のまま生きる人」とは1種類目の人のことをいうのであろうと思う。また、教会に圧倒的に多いのは、3種類目の人々であろう。
今日は、元旦礼拝で夫とともに神の招きをいただいた。お説教の中で、「聖霊を宿した者は神の子としてのいのちが宿る」という話があったが、「聖霊を宿した者は、霊的なことに鋭くなる」とも私は思う。
しかし、上記に述べた3種類目の人々の場合は、霊的なことに、つまり神が語られていることに疎くなりやすい。よって、神から目がそれてしまい、人に目が行くようになってしまう。他人の言う噂話や中傷、または自我の思いに耳が傾きやすくなる。聖霊を宿したからといって必ずしも神の語りをいつも聞ける者というわけではないのである。
では、どのようにしたら、霊的成長を遂げながら、神の子として命を宿していることができるのであろうか。
あくまで我流であるが、私の場合はこうである。
私は幼い頃から、人や物事に出会うと、その人や物事の〝後ろにあるもの〟を見る癖があった。例えば、ある人に出会うと、その人の言動から、今までどういう経験があったからだろうかとか、ある物事に出会うと、その物事が出来上がるまでの背景はどういうことだったのだろうかとか思うのである。
そういう人や物事の見方をしていると、その人やその物事自体には多く興味が注がれず、目に見えない〝後ろにあるもの〟だけに心が注がれるようになるのである。
けれど、共にいる誰かが同じ人や物事を見ていて、その人が目に見えている人や物事だけを見ていた場合、私が言った感想や考えは、おかしく、変な感想や考えだと捉えてしまうであろう。
そんなことで、私は、相手と話がちぐはぐになったり、誤解されてしまうことが時々ある。
けれども、この〝後ろにあるものを見る癖〟は、聖霊を内に宿してからは大きな私の武器となっている。
出会った人や物事の後ろにある神の思いが鮮明に見えてくるからである。
これができると、悟りに鋭くなるが、人や物事の先も読めるようになってしまう。平たく言えば「先見の明」なのだが、元来だったら知らなくていい人の心の奥底や本音、物事の原因が手に取るように見えてしまうため、私自身は結構心労に思うこともある。こういうものが見える度に、「世の中には見なくていいものがたくさんある」と思ったりする。
キリストは神の御子であられたから、人や物事のそういった後ろというものをご覧になって、心から私たちを心労強く悲しまれたのだろうと、その思いは私が後ろのものを見る心労など足元にも及ばないほどつらいものであったろうと想像する。
今年の元旦は、キリストを肌で感じる新年となった。






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