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テモテへの第一の手紙3章9節

  • 執筆者の写真: Pastor
    Pastor
  • 2月23日
  • 読了時間: 2分

きよい良心をもって、信仰の奥義を保っていなければならない。


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ここには、監督職に就くにふさわしい人とはどういう人かが述べられている。「監督」というのは、今日で言えば、牧師である。しかしながら、この9節の言葉は一般の信徒であっても無縁ではない。


キリスト者であれば、だれもが「信仰の奥義(おくぎ)」なるものを持っているからだ。それをしっかり保たなければならない。


「信仰の奥義」とは、奥義中の奥義と言ってもよいが、それは、私たちの信仰の核心にある「キリストの十字架と復活」である。奥義とは隠されたる真理である。特に賢い人に隠され、人が知力を尽くして知ろうとすればするほど、遠ざかってゆく真理である。私たちの理性によれば、人々にののしられて、あのむごたらしい十字架で死んだ者がどうして人を救えるのか、どうして死んだ者がよみがえるのか、それは受け入れがたいものである。しかし、幼な子のような柔らかいへりくだった心をもって、私たちの心のうちにささやかれる聖霊のささやきに耳を傾けるなら、知性によってではない、私たちのうちに創造以来備わっている霊性(神を求め、神と交わりをなす性質、側面)によって、腑に落ち信じることができるのである。そのようにして信仰の奥義は得られる。


この信仰の奥義を保つためには、「きよい良心」が求められる。それは、みずみずしい霊的な感性である。聖霊のささやき、主の細き御声を聴き分ける力である。この霊的な感性は罪によって鈍る。あのアダムとエバが善悪を知る木の実を食べた時、神の前に身を隠した。罪を放置しておくと、神から遠ざかってしまって、聖霊のささやきが聴けなくなってしまうのである。聖霊の光に照らされて自らの罪を告白し、再び神に向かい、神との関係を回復するのである。そのようにして「信仰の奥義」は保たれるのである。



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