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テモテへの第一の手紙1章6-7節
こういうわけで、あなたに注意したい。わたしの按手によって内にいただいた神の賜物を、再び燃えたたせなさい。というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。 ******* 「内にいただいた神の賜物」とは、聖霊のことである。聖霊は、恐れ臆する思いから私たちを解き放ち、力と愛と慎みを与えてくださる。聖霊が注がれると、私たちの心は熱く燃え、力にあふれるだけでなく、神の愛が注がれ、神の愛に満たされる。他人に対し、押しつけがましくなく慎ましく、気遣いがある。だから、聖霊に満たされた人とは何事にも勇敢に立ち向かい、バランスのとれた人間性を保ち、いつまでもこの人と一緒にいたいと思うような人であろうと思う。

Pastor
3月3日


テモテへの第一の手紙1章5節
また、あなたがいだいている偽りのない信仰を思い起している。この信仰は、まずあなたの祖母ロイスとあなたの母ユニケとに宿ったものであったが、今あなたにも宿っていると、わたしは確信している。 ******* あの燃える柴に、モーセが近づいた時、神はご自身を現わし、「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われ、ご自身が何者であるかを明かされた(出エジプト3:6 マタイ22:32参照)。私たちの信仰は、親から子に、子から孫へと受け継がれてゆく信仰である。このテモテ第二の手紙1章にも、テモテの信仰が祖母ロイス、母ユニケと受け継がれてきた信仰であると語られている。どんなに輝かしい信仰生活を送ったとしても、それが一代で終わってしまっては、夏の夜空に花開き、消えてゆく花火のようにむなしい。「あなたにも宿っている」というように、生きた信仰が子や孫たちにしっかりとその心に根づくように生活の中に示し、語り伝えてゆきたい。

Pastor
3月2日


テモテへの第一の手紙6章18-19節
また、良い行いをし、良いわざに富み、惜しみなく施し、人に分け与えることを喜び、こうして、真のいのちを得るために、未来に備えてよい土台を自分のために築き上げるように、命じなさい。 ******* 主イエス・キリストの再臨の日、主と対面し、主と同じ姿に変えられる、その望みに立って、家族に対し、友に対し、職場、学校、あらゆる人とのかかわりの中で良きわざに励み、惜しみなく分け与える者でありたい。それは他者のためという以上に自分自身のためである。そのようにできたことが嬉しく、喜ばしいことであるからだ。

Pastor
2月28日


テモテへの第一の手紙6章12節
信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである。 ******* この世に生きるかぎり、キリスト者には戦いがある。さまざまな誘惑があり、礼拝をささげることにも、聖書と祈りをもって主なる神と交わる時間を確保するのにも戦いがある。戦いがあるから、主が私たちの生活のただ中におられることを知り、主のみわざを拝するのである。

Pastor
2月27日


テモテへの第一の手紙6章6節
しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。 ******* このみ言葉のとおりである。主イエス・キリストをとおして神と和解し、神との交わりの中に入れられることによって得られた尊い恵みは、「足ることを知る」ことができたことである。主と共に歩む時に、必要なものはすべて備えられる。その与えられたものに感謝する。多くを持たなくとも満ち足りている。多く持っているキリスト者もいる。それはその必要があって神から与えられたものであり、正しく管理する能力も神から与えられているからである。管理が危うくなって、金銭に振り回され、信仰さえ失いそうになったなら、多くの富から離れることも考えなければならない。永遠の命にはかえられないからである。 パウロは言う。「わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている」(ピリピ4:11-12)。 そのような成熟

Pastor
2月26日


テモテへの第一の手紙5章1-2節
老人をとがめてはいけない。むしろ父親に対するように、話してあげなさい。若い男には兄弟に対するように、年とった女には母親に対するように、若い女には、真に純潔な思いをもって、姉妹に対するように、勧告しなさい。 ******* ここに言われていることは、未だ若い青年牧師テモテに対してだけでなく、教会に集うすべての人に対して言われているものである。教会は、主によって召し集められた神の家族である。上掲のみ言葉のように、父親がおり、母がおる。また息子がおり、娘がおる。高齢の人の中には、一生懸命子育てをして家庭を守り支えてきても、子どもたちが自立してそれぞれ家庭を持てば、親のことを顧みる暇がなく、さびしく暮らしている人がある。そのような人に、若い人は自分の親のようにやさしくいたわり、主はご存じであってその労苦に必ず報いてくださるという希望を語る。若い人には、職場の人間関係に悩んでいる人がいれば、高齢の人は自分の経験から有益な助言をし、慰め励ます。教会は霊の家庭であって安心して憩える場所である。上よりのいのちと力が注がれて、それぞれの生活の場に遣わされてゆくので

Pastor
2月25日


テモテへの第一の手紙4章7-8節
しかし、俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい。信心のために自分を訓練しなさい。からだの訓練は少しは益するところがあるが、信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、万事に益となる。 ******* ミラノ・コルティナ五輪が閉幕となる。オリンピックを観戦しながら、改めて出場している選手たちが如何にたゆまぬトレーニングを重ね、身体だけでなく精神面も鍛錬してきただろうかを思う。そう思いながら、私たちの信心、信仰はどれだけ鍛えることをしてきただろうかを考えさせられた。 信仰の成長のために試練は欠かせないものである。試練があって私たちは神をまっすぐに見、祈る。そしてみ言葉を足元や道を照らす光とし、それを乗り越える命とし力とする。それによって神と私たちのつながりが一層深められてゆくのである。

Pastor
2月24日


テモテへの第一の手紙3章9節
きよい良心をもって、信仰の奥義を保っていなければならない。 ******* ここには、監督職に就くにふさわしい人とはどういう人かが述べられている。「監督」というのは、今日で言えば、牧師である。しかしながら、この9節の言葉は一般の信徒であっても無縁ではない。 キリスト者であれば、だれもが「信仰の奥義(おくぎ)」なるものを持っているからだ。それをしっかり保たなければならない。 「信仰の奥義」とは、奥義中の奥義と言ってもよいが、それは、私たちの信仰の核心にある「キリストの十字架と復活」である。奥義とは隠されたる真理である。特に賢い人に隠され、人が知力を尽くして知ろうとすればするほど、遠ざかってゆく真理である。私たちの理性によれば、人々にののしられて、あのむごたらしい十字架で死んだ者がどうして人を救えるのか、どうして死んだ者がよみがえるのか、それは受け入れがたいものである。しかし、幼な子のような柔らかいへりくだった心をもって、私たちの心のうちにささやかれる聖霊のささやきに耳を傾けるなら、知性によってではない、私たちのうちに創造以来備わっている霊性(神を求

Pastor
2月23日


テモテへの第一の手紙2章8節
男は、怒ったり争ったりしないで、どんな場所でも、きよい手をあげて祈ってほしい。 ******* 男性に対して、主なる神の求められることは、怒って争って手をあげることなく、きよい手をあげて祈ることである。義憤に駆られ怒り、争う。確かに男性にそうした傾向があるように思われるが、女性であっても怒り争う。怒りという感情に身をゆだねて、いいことなど何一つない。感情が爆発したら、もうだれも止められない・・・ということは決してない。主はそれを止めることができる!主は生きて私たちに働かれるからだ。私の経験を話すならば、腹が立って、それが収められずに車の運転をどうしてしなければならない時がある。こういう時は本来運転すべきではないが・・・。しかしながら、そうした場合に、アクセルを踏んで走行する。すると、制限速度を超えることなく、運転している。これは自分が意識してやっていることではなく、主が私を制御しておられるのである。そのように主はいつもよりもゆっくりと走行させて、私に平常心を取り戻してくださるのである。もうひとつのことは、これは意識してすることである。怒りのこぶし

Pastor
2月20日


テモテへの第一の手紙2章4節
神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。 ******* 神の御心は、すべての人が救われて真理を悟り、神に向かって神と共に歩むことである。その神の御心にしたがって、家族や友人、知人に福音を伝えてゆきたい。私たちが福音を伝えてゆくなら、主イエス・キリストが仲保者となって、神と結び合わせてくださる。

Pastor
2月19日


テモテへの第一の手紙2章1-2節
そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。 ******* 政治に無関心であってはならないことが、少なくともこの箇所に述べられている。私たちが安らかで穏やかな一生を送ることのできるために、主なる神を心から信じ従ってゆくために、その信仰の自由が失われないために、立法、行政、司法をつかさどる人々のためにとりなし祈るのである。教会が、信仰と祈りによって国や地域を支える良き共同体でありたい。

Pastor
2月18日


テモテへの第一の手紙1章16節
しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。 ******* パウロがサウロと呼ばれていた時、彼は意気揚々として、方々に離散したキリスト者を捕らえるためにダマスコに向かっていた。その途上、強い光に撃たれて落馬し、復活の主の声を聴いたのである。あの時、サウロは主に撃たれ殺されていてもおかしくなかった。主のあわれみによって命はとどめられ、贖われたのである。殺されて当然の者が生かされ、救いに入れられた。だからパウロは言う、「わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである」と。「模範」は「見本」と訳した方がわかりやすい。私のような悪らつな者が救われたのだから、他のどんな人であっても救われないはずはない」。そういう見本なのである。

Pastor
2月17日


テモテの第一の手紙1章15節
キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。 ******* 「違った教え」(3節)を説く者がおり、それを警戒して、パウロはここにキリスト教信仰の本髄を示し、そこに立ち返るべきことを教えている。キリスト教信仰とは何か?キリストの来臨は何のためであったか?それは罪人を救うためであると明言されている。キリストは罪人のためにこそ、十字架にかかられたのである。どんな悪らつな罪人であろうと、彼を救ってやまない。それは確実なことであるとパウロは言う。何故そう言えたのか。それは、「私のような罪人のかしらさえ、神のあわれみによって救われたからである」。だから、どんな人であっても救われないはずがないと言うのである。これは大げさに言っているのではなく、13節に「以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった」と言っている。罪と滅びの中から私たちを救われた主イエス・キリストを宣べ伝えてゆきたい。

Pastor
2月16日
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