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テモテへの第二の手紙3章5節をいただいて

  • 執筆者の写真: 来主 珠里(July Cross)
    来主 珠里(July Cross)
  • 2023年4月28日
  • 読了時間: 2分

今日のデボーション箇所は、ウェスレーから形式的な敬虔について学ばせていただいた。

なんとも一刀両断な箇所だと思う。


私はよく自分のことを「不良クリスチャン」と呼んでいる。

なぜかと言うと、敬虔ではないからだ。また敬虔であろうともしないからだ。

聖書を通じて神が言われることを正々堂々と破ることもある。相手にとって理不尽かもしれないと知っていても、その物事が相手に必要な善意のことであるならば、たとえ嫌われたとしても、はっきり相手に伝える。ブラックジョークを放つこともある。礼拝堂で祈る時も、神に憐みを求める祈りどころか、悪態こそつかないが心の中でただひたすらボーッと神の空気を見つめながら自我に向き合っていることもよくある。

要するに、人の目から見ても、自分の目から見ても、私は神から良しとされる言動は何一つないのである。


けれど、神に作られた自分そのもので教会生活を含める人生を送っていると心から感じている。「神の前ではきちんとこうしなくてはならない」という足かせが私には全くなく、正に「私はキリストの自由を生きている」と思うことがよくある。

大量の活動の中にいても、それを苦痛に感じることが全くない。見た目は私の体が動いてやっていることなのだが、実際は聖霊が行っていることで、私がやってることではないからだ。

聖霊はどこまでも誠実な御方である。キリスト者らしくあろうという心がけはとても素晴らしいことだと思う。そういった思いがあれば神がそのように作り変えてくださるからだ。ただ、ウェスレーが語るように、そこに神への誠実や一生懸命さが働かなければ、それは単にその場だけの俳優の演技と同じようなものだと思う。


敬虔であろうとする前に、誠実を貫けるキリスト者でありたいと思う。






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