ピリピ人への手紙2章8節をいただいて
- 来主 珠里(July Cross)

- 2023年5月16日
- 読了時間: 4分
今日は、先主日のお説教を振り返ってのデボーションをさせていただいた。イエス様の謙遜と従順と献身に深く思いを馳せることのできるデボーション箇所だと思う。
謙遜と従順と献身...キリスト者は常にこの3つを目標としていると思う。
幸か不幸か、この3つを最初から兼ね備えている人間は誰一人いない。それゆえに、この3つをイエス様のように兼ね備えたいと目標を持つのが、健やかなキリスト者の歩みであるようにも思う。
神を第一とする謙遜を思う。
ずっと以前に、ある牧師先生が礼拝での席についてお話しになったことがある。先生が言われるのには「神を第一とする人は、前方の席に座る」と。前方の席に座るためには、遅刻をしては座れない。また、時々、前方の席が空いているにもかかわらず、遠慮して後方の席に座る方がおられたり、後方の席に仲の良い方がおられるからと後方に一緒に座る方がおられる。
先生が言われたのは、後方の席の人には神の恵みが及ばないと言っているのではない。神に対しては積極的であるようにという意味である。
空いているにもかかわらず、遠慮をして後方の席に座るのは神を強く求めていない消極的な姿であり、それは謙遜とは違う、と言う。また仲の良い方と一緒に座ろうと後方の席を求めるのは、神よりも人を先に求めてしまっている姿で、これも謙遜ではない、と言う。
このお話から私が思い起こしたのは、マルタとマリアの話である。
主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
ルカ10:41-42
自分の力で何とかもてなそうとするマルタに比べて、マリアは神の一番近くにいようという積極性を発揮した。そしてそれは神が人に求めておられる「神を第一とする」=「この罪な私のそばにいてください」という謙遜につながるのだ。神という良いものを選ぶということは、消極性や遠慮=謙遜ではないのだ。
神への従順を第一に考える。
とかく私たち人間はどんな物事においても「自分はどうするのか」「自分がこうしたい」と、つい自我の塊で行動しようとしてしまう。自分の意志が強い人であればあるほどそうであろうと思う。私もそんな人間の一人であるので、大いに反省しなければならないところだと常に思っている。
そういった自分の不出来なところから、何か決断をしなくてはならないような時には、祈り、聖書を開き、神からの答えをいただき、そしてそれに従うようにしている。その答えは、私にとって思いもよらなかったことであったり、理不尽なことであったりすることもあるが、神の答えは寸分の狂いもなく、いつも正しいものだと感じている。「きっとうまく事が運ばないだろうなぁ」と思うようなことも、神の御指示に従うと、面白いようにスムースに事が運んだりする。他人から見ると、ささいなこともいちいち神に尋ねている私の姿は実にばかばかしいものにうつるかもしれない。けれど、私は自分で答えを出せるほど賢くもないし、多くの知恵もない。そういう自分を思うと、神というガイドがいる事は、なんと幸せなことだろうと思う。
神に全てを献げることを第一とする。
先日、天に召された姉は生前、主日の朝は必ず入浴をしてから、礼拝に参列していた。私が姉と出会った時は、すでに御歳をめしておられたので、教会の御奉仕のどれだけの分量をやっておられたのか私は知らないが、「汚い体で神にお会いすることはできない」という姉の思いは、体からはじまって全てを神に献げる姿だったと今も思い起こす。
今年度、私は神によって保育園でのボラワークを祝福のうちに取り去られ、今年度は神に献げるようにと導きを受けた。神は〝時にかなって〟人を動かす。神は私に、大変長いスパンで、ある一つのことをさせようとなさっている。そんなことが実現するのかというようなものであるし、他人からすれば私にそれを実現させる勇気があるかどうかということも問われるところだが、なぜか私はそれがスムースに運ぶであろうことが分かっている。神がさせようとしていることを実現するためには、私は自分のこの身を神にお献げしなくてはならない。それが契約の神が私に条件として示されていることだからだ。よって、教会での今の御奉仕は、この先、神が私に与えようとしている物事への神からの訓練の場として与えられている。私にとっては訓練というよりは、楽しい練習という感じである。
イエス様の御生涯を心に留めていると、必然的に上記の3つのことが徐々に自分に取り込まれていくことがよく分かる。そして、ほんの僅かでもその恵みが取り込まれていくと、隣人を愛することは容易なことになっていく。
謙遜と従順と献身が、たくさん体の中に、そして心の中に取り込まれ、良いキリストの実として実っていくことを祈っていきたいと思う。






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