ヘブライ人への手紙11章1節をいただいて
- 来主 珠里(July Cross)

- 2023年10月22日
- 読了時間: 3分
今日は珍しく急に礼拝を休むこととなった。持病の腰痛のために、動きを最小限にしなければいけないからだ。家の中では座ったり、横になったり、立ったりを繰り返す。これを二日間ほどやっている内に、通常通りに動けるようになる。
私は生まれつき腰の骨に奇形があり、その奇形を支えるために骨周辺の筋肉に多く負担がかかっている。日々、コルセットは手放せないし、これがないとすぐにどこかにつかまらないと長時間立っていられない。
長年、この痛みと付き合っていると、ここで休むべきなのか、動くべきなのかがすぐに分かるようになる。つまり、今以上にひどくならない内に休むべき時を見分けることができるようになるのだ。
かなり昔の話であるが、礼拝を休むということは、不信仰のそのものだと私は思っていた。奉仕活動をしていた場合、休めば誰かにしわ寄せがいくであろうし、仕事ほど責任はないにしても、やはり何かしらの活動をしていれば、そこに僅かながらの責任は必ず発生している。誰かに迷惑がかかるとしたら、誰もが自分の立場だけを心の中心に置いているのだから、それを蒙ったその者は呟きを当然のごとく言うであろうし、また何よりも救って下さった神に私は失礼な存在になるのだと思っていた。だから、他の人はともかく、私は多少の無理は我慢してでも、礼拝を休んではならないと思っていた。
けれど、今日のデボーションの筆者である牧師は言う、問題が迫って来る前にそれに立ち向かうことができるのが信仰だと。
肉体が限界であるのに無理をして礼拝で奉仕しても、それは清い奉仕にはならないであろう。逆に、問題ない肉体で奉仕をすれば、その健やかな奉仕を神は喜ばれるであろう。
だとしたら、「これ以上動くと、腰痛はひどくなってしまうかも」という腰痛の悪化問題が迫って来る前に、充電をすべきだ。自分のためではない、神のために。
これは、私のような一信徒の話だけではないと思う。牧師などの大きな責任立場にある方たちも同様だと思う。
ある知り合いの牧師が、ほんの三ヶ月ほどの間に10kg以上も体重が減り、どこか重病なのではないかと信徒たちの間で囁かれた。実際には、全く病気でなかったのだが、体の疲労を超えて活動していたために、体重減少に繋がっていた。つまり、オーバーワークだったのだ。そのままでいたら本当に病に侵されていたかもしれない。
牧師は神の執り成し手ではあるが、一般信徒同様、肉体を持っている。限界がある。「無理だ」と思ったら、「今日は信徒と全く交わらない日なのです」と公言する日があっても良いと私個人は思っている。
なぜなら、健やかな肉体は、健やかな信仰を生み出していく。良い奉仕も、良い説教も、この健やかさから生まれてくる。
今現在、自分にある信仰が健やかなものであるかどうかは、目には見えない。希望として歩んでいる信仰が、肉体の歪みによって、知らない内に希望でなく、義務に取って代わってしまっていることもある。
目に見えないものを確証している私たちの信仰は、つかみどころがないものであると思われがちだが、神はいつも問題が起きる前に小さなサインを下さり、つかみどころを知らせて下さっている。その〝つかみどころ〟が、〝休め〟のサインであるならば、神に反抗すべきではない。
どんな事にも、どんな時にも、私たちは常に神のサインに目を覚まして、健やかな信仰のために推すところと引くところをわきまえなくてはならないと思う本日である。






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