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ペトロの第二の手紙3章18節をいただいて

  • 執筆者の写真: 来主 珠里(July Cross)
    来主 珠里(July Cross)
  • 2023年7月24日
  • 読了時間: 3分

「成長が伴わない恵み」というのは大変的確な表現だと思う。魂の健康がどれだけ重要であるかというのが分かるデボーション箇所だと思う。


私たちキリスト者は、365日休みなく、神の恵みの中にいる。けれども、台風の中心に入ると台風の荒々しい風の様子が全く分からないのと同様、年中、恵みの中に置かれていると、その恵みがマンネリ化してしまい、神の恵みの中にいても、信仰の成長が全く現れない時というのがあるように思う。


例えば、日曜ごとに礼拝において、私たちは説教を聞くわけだが、説教中に眠ってしまう人もおられるのではないだろうか。もちろん、平日の疲れによって、眠くなってしまうということもあるかもしれないが、説教の内容が、聞いている耳を通して心の奥に入ってこないからこそ、眠くなってしまうのではないだろうかと思うことがある。聞き手である者の心に説教が入り込んでこないのは、牧師の説教力の責任では全くない。これはひとえに聞き手である信徒が成長していない瞬間なのだ。

毎日水を飲んでいると、水の有り難みというのが分からなくなるものである。災害などで水不足になって初めて水の有り難みを知るというのが私たちなのではないだろうか。

同様に、いつも牧師の説教を通して神の恵みに降りそそがれているキリスト者は、知らないうちに、それが当たり前のことになってしまい、刺激にも何もならなくなってしまい、つまるところ「恵みをいただいて当たり前」となってしまうのかもしれない。

そんな時は、信仰の成長の芽は全く伸びることがない。ときには小さな葉ぐらいは出るかもしれないが、そういった時の成長は時間の経過とともに枯れ落ちてしまう。

恵みが与えられている環境にいるにもかかわらず、恵みが恵みとして成長しないのである。

この状態が長期間続き、ある意味での重症な状態になると、教会へ通うこと自体が厳しく思う人も出てくるかもしれない。


私はキリスト者になった頃、そういった状態になったこともあったが、現在では全くそれはありえない。日々、たった半歩であっても私の信仰の歩みはきちんと前に神と共に進んでいる。

けれど、たくさんのご奉仕をさせていただく中で、神の恵みのもとにいるにもかかわらず、すべてのことが「神の当たり前」になってしてしまい、信仰の成長ができない方たちをお見かけする。身体的に健康でも時々しか礼拝に来ない方、聖歌隊に参加しているにもかかわらずハツラツと歌声が出せない方、人から得ることだけを求め、与えることのできない方、奉仕の立場にあっても神の犠牲ではなく自分の心地よさに傾く方...

こういった方たちの後ろには、他人の知らない、そうせざるを得ない悩める心の現実があり、それによってこういう状態なのかもしれないが、神を第一とするならば、こういった状態からは簡単に抜け出せ、たとえ煩う現実が進行していたとしても笑顔で神にお委ねすることができる。それはこの私が正にそうだからだ。


また一方で、こういった方たちの側に神は必ずおられ、その成長へと引っ張っていこうとされているのもよく見える。彼らが現実に囚われている自我を破棄して、神の牽引に抵抗さえしなければ、礼拝に毎週出るようになり、ハツラツとした歌声も出せ、得るよりも与えることを重視するようになるだろう。

神はこういった人たちをも見捨てることはない。なんとも感謝なことだと思う。

彼らが地上の像ではなく、天の像を回復できるよう祈っていきたいと思う。







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